伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.22 すべての人は、そのままで仏である

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.22 すべての人は、そのままで仏である

仏教的アドヴァイタ

質問
「昔から誰もが、心そのものが仏である(即心是仏)と言っています。でも、どの心が仏なのでしょうか?」

希運禅師
「君には、いくつの心があるのか?」

質問
「意識の低い心が仏なのでしょうか?意識の高い心が仏なのでしょうか?」

希運禅師
「一体君のどこに、意識の高い心や低い心があるのか?」

質問
「三乗の教えに、意識の高い心と低い心があると説かれています。和尚様は、なぜそれが無いと言えるのですか?」

希運禅師
「三乗の経典には、はっきりと君に向かって書いてある。“意識の高い心、低い心というのは、妄想である。”

今、君はそのことがわからないから、そのことに囚われて、心が実体のあるものだと思い込み、空なるものを現実だと思っている。
それこそ、妄想だ。
妄想に陥っているから、心を見失っているのだ。

そのような意識の低い境地や、意識の高い境地という概念を取り払ってしまえば、心以外に、別の仏があるわけではない。

達磨大師は、西方から来られて、“すべての人は、そのままで仏である”と直接言われた。
そのことが君にはわからず、意識の低い状態や高い状態に囚われてしまい、外の世界を駆けずり回り、かえって自分で心に迷っている。
だから君のような人に、心そのものが仏である、と説かれたのだ。


(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

【解説】

インド思想で、アドヴァイタ(不二一元論)と呼ばれている思想に似ていますね。
仏教の場合は、その一元にも実体がない(空)ということになります。

霊性修行を実践すると、どうしてもそこに尺度というものが出てきます。波動の高さとか、意識の高さというものです。
そういうものに囚われると、自分は意識が高くて、周りは意識が低いとか、自分たちのグループは優れていて、世俗は劣っているといった二元的な認識に囚われるようになります。ここが霊性修行の大きな落とし穴です。
要するに、エゴイズムに基づく比較や分離の認識が、霊性の世界にまで侵食してくるのです。

黄檗希運は、もともとそのような尺度など妄想にすぎないと言っています。
すべてはすでにしてそのままで仏である、ということです。