伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.21 思考やイメージを滅せよ

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.21 思考やイメージを滅せよ

仏教的アドヴァイタ

昔の人は、心が鋭敏で、たった一言で、すぐに学ぶことを絶った。
だから、「絶学無為の閑道人」と呼ばれた。
今時の人は、知識と理解を集めようとして、言葉の意味を理解することを修行だと思い込んでいる。
しかし、知識と理解は、かえって真実への道を塞ぐものである。

それは、子供にたくさんのミルクやヨーグルトを与えるだけで、消化されるかどうかを考えないようなものだ。
三乗の修行者は、皆こんなことばかりしている。
皆、消化不良になっている。
「知的な理解が消えない限り、それらは毒になる」と言われるように、こんなことでは生死の流転の中に引き込まれてしまう。

真実の本質世界には、このようなことはない。
だから、涅槃経の「王の刀」のようである。
これまでこだわっていたすべての理解や解釈は、すべて捨てて空っぽにし、分別をしないようにしなければならない。
それが「空如来蔵」の境地である。
如来蔵には、ひと欠片のチリもない。
それが「有を破る法王、世間に現れる(法華経)」である。
また「私は然燈仏から何も得なかった(金剛経)」というものだ。
これらの言葉は、君たちの知的な理解や解釈を、空にしようとするものである。

表も裏も溶かして、解釈を捨て、一切の依存心を無くした人を、「無事の人」と呼ぶ。
網のように張り巡らされた三乗の教えは、臨機応変に使う薬であって、ケースバイケースで説かれたものでしかない。
状況に応じて説かれたものだから、それぞれが同じではない。
ただ、その本質に気づけば、迷うことはない。
ひとつの境地やひとつの教えにこだわって、言説を解釈してはいけない。

なぜこのようなことを言うのかは、実は、定まった法則として仏陀が説いたものは無いからだ。
私たちの宗派は、そのような教えには関知しない。
ただ思考やイメージを滅することがわかれば、それで終わりなのだ。
あれこれと心配するような方法はとらない。


(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

【解説】

知的な解釈をしてしまうと、その人の知識の枠組みでしか現象を認識できません。
これが悟りに対する様々な妄想を生み出します。

黄檗希運は、知的な理解ではなく、ダイレクトに直観的に気づきなさいと言っているのかもしれません。
だからこそ、知的な理解は方便であり、捨てるべきものであると。

黄檗希運は、経典の言葉を引用し、悟りの本質を伝えようとしています。
そして、思考やイメージを滅していく方向性を、私達に示しているのです。