伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.20 魚を捕り終えたら道具を忘れなさい

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.20 魚を捕り終えたら道具を忘れなさい

仏教的アドヴァイタ

質問
「これまでの沢山のお話をして頂きましたが、それらはみな相対的な説明ばかりで、本質の法則をそのまま示されたものではありません」

希運禅師
「本質の法則には、相対的なものなどない。でも、君の質問は、それ自体が相対的な視点から述べられている。それでどうやって本質の法則を求めようというのか」

質問
「私の質問が相対的なものならば、禅師のお答えもいかがなものでしょうかね」

希運禅師
「君は、鏡を持ってきて、自分の顔を映してみなさい。人のことをとやかく言う前に」

「まるで犬のように、何かが動いたらすぐに吠える。風で草木が揺れているのもわからない」

禅師はさらに言われた。
「私たちの禅の宗派は、伝承されて以来、知的な理解や分析をしてはいけないと教えている。
ただ、道を学べと言っているのだ。
しかし、それさえも導きのための言葉でしかない。
道は学べるものではない。
学んで理解しようとしたら、逆に道に迷うだろう。

道には、方向も位置もない。
それが大乗の心というものだ。
この心は、内にも外にも中間にもなく、全く場所を持たない。
知的な理解をして、君の今の認識の範囲内だけから主張してはいけない。
もしそのような思考が尽きれば、心にはスペースが無くなる。
この道は、天の本質性であり、呼び名もない。

しかし、人々はそれに気づくことができず、常識に縛られているために、様々な仏が出現して、この世の法則を説いた。
それでも、君たちが気づくことができないことに配慮して、便宜上、『道』という名前を付けただけである。
この名前に囚われて理解しようとしてはいけない。
だから、『魚を捕り終えたら道具を忘れなさい』と言われるのだ。

ナチュラルな心と体で、道に達し、本質に気づくのだ。
これが沙門と呼ばれるものだ。
沙門の恩恵は、思考が終焉することによって成就するのであって、知的に学ぶことによって得られるものではない。
今、君は、心で心を求めて、他人の家に頼って、そこから知的に学ぼうとばかりしている。
それでは、気づくときが来るはずがない」


(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

〔解説〕

知的な理解で悟りを捉え、悟りを対象化し、獲得できるものにする。
悟りを獲得したら、特殊な境地になり、問題のすべてが解決する…。そのような悟りの捉え方は、根本的に間違っていると黄檗希運は言っているのかもしれません。

知的な理解や分析は、方便でしかない。そのような方便は、必要がなくなったら捨て去りなさい、ということなのでしょう。

悟りには、方向も位置もなく、内も外もないので、得ようとして得られるものではない。
悟りは、私たちが獲得できる魔法のアイテムのようなものではない、ということが黄檗希運の教えには一貫して説かれているのです。