伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.16 過去・現在・未来に執着するな

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.16 過去・現在・未来に執着するな

仏教的アドヴァイタ

ほとんどの場合、人は、心を空にしたいとは思っていない。
虚空に落ちてしまうことを恐れているからなのだが、その恐れている心自体も、元々、空であることがわからない。

愚かな者は、現実を軽んじるのに、自分の心を取り除こうとはしない。
しかし、智慧のあるものは、自分の心を取り除いても、現実を排除することはない。

悟った者は、その心が虚空のような状態で、全ての執着を捨て、自分が行った善行による功徳さえにも、執着はしない。

執着を捨てる状態には、三段階がある。
内側も外側も、体も心も、全てへの執着を捨て、まるで虚空のように所有欲がなくなり、そのような状態になって、空間や事物に応じて、主体も客体も忘れている境地を、「大捨」とする。

悟りへの道を進み、徳を積みながら、その一方で、それらへの執着をすぐに捨てて、願望を持たない境地を、「中捨」とする。

広く良い行いをして、願望を持っても、法則を聞いて空に気づき、結果的に執着を捨てるのを、「小捨」とする。

大捨は、ろうそくが前方を照らしているように、迷いも悟りも存在しない。
中捨は、ろうそくがそばだけを照らしているように、明るくなったり暗くなったりする。
小捨は、ろうそくが後ろを照らしているように、前方の落とし穴が見えない。

だから、悟った人の心は、虚空のようなものであり、全てへの執着を捨てる。

過去のことは、捉えることができない、これが過去捨である。
現在のことは、捉えることができない、これが現在捨である。
未来のことは、捉えることができない、これが未来捨である。
これが、「三世の放棄」である。


(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

〔解説〕

ここで説かれているのは、自分の善行にすら執着するな、ということです。善行を行うと願いが叶うといった意識を持つのはよくないということのようです。

はじめからそういう執着を持っていない境地が大捨で、その都度そういう執着を捨てていくのが中捨、最終的に執着がなくなるのが小捨ということです。

執着を持ったまま生きていると、前方が見えなくて、落とし穴に気づかないと言っています。
あらゆる宗教的教えの共通点である、欲望を滅し、執着を捨てることが、黄檗希運の教えにも説かれています。
それは、時間にも及び、過去、現在、未来への執着も捨てることが書かれています。

ここでいう執着とは、願望のことです。
過去に、こうすればよかった、こうなればよかったと、取り返しのつかないことを願っている。
現在、こうしたい、ああしたいという思いがある。
未来に、こうなってほしい、ああなってほしいという願望がある。

もちろん、夢を持つことはいいことだと思いますが、それが囚われのレベルになると、願望に執着していることになります。そういう状態になると、ネガティブな心理状態になりやすいので、逆に夢が実現しなくなるようです。
悟りというのは、本当に、簡単なものではないなという気がします。