伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.15 悟りへのこだわりを捨てよ

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.15 悟りへのこだわりを捨てよ

仏教的アドヴァイタ

10月8日、禅師は私に言った。
法華経に「幻の町」というものがある。
小乗の修行者、大乗のそれぞれの修行段階の覚者を導くものとして指導されている教えは、「幻の町」と同じである。

「宝の場所」とは、自分の内にある真実の心、仏性という宝のことである。
この宝は、測ることも、確立することもできない。
仏もなく、人間もなく、主体も、客体もない。
だから、一体どこに「幻の町」など存在しているだろう。

もし、「幻の町」があるとしても、どこに「宝の場所」があるのかと問う時、その場所を指し示すことはできない。
指し示したなら、そこには方向があるということなので、本当の「宝の場所」ではない。
だから隊長は、「近くにある」としか言わなかったのだ。ここにある、ということはできないのだ。

一闡堤(仏教を誹謗中傷する者)というのは、信を持っていない者である。
あらゆる人間たち、小乗の者たちで、仏の力を信じない者は、善根を断った闡堤と呼ばれる。

悟りを目指す修行者は、仏の法則があることを深く信じ、大乗や小乗の違いを気にせず、仏と人間とは、その本質において同じであると気付く。
この者たちは、善根を持った闡堤と呼ばれる。

一般的に、説かれる声と教えによって悟るものを声聞といい、因縁を見て悟るものを縁覚という。
もし自分の本質の心で悟るのではないなら、たとえ仏になっても、声聞仏・縁覚仏と呼ばれるだけだ。
修行者は、法則の上で悟ることはあっても、本質の心の上で悟ることはない。
しかし、それではどれほど長い間修行をしても、本質の仏になることはできない。
もし、本質の心で悟るのではなく、法則の上で悟るだけなら、本質を軽んじて、法則だけを重視することになる。
それでは、分離のある世界を追いかけることになる。
自分自身の内なる本質を忘れてしまうからだ。

要するに、ただ自分の本質に同調すればいいだけで、法則だけを求めてはいけない。
本質がそのまま法則だからである。

ほとんどの人は、分離意識のせいで、心が分断され、現象に囚われるせいで、真理がわからなくなる。
そこで、分離意識から逃れることで心を安定させようとし、現象を軽んじることで真理を理解しようとする。
しかし、実はその心そのものが分離意識を生み出し、真理にこだわることが現象を生み出していることを知らない。

ただ、心そのものを空にすれば、自然に分離意識も空になる。
真理へのこだわりを捨てれば、現象への執着もなくなる。
あべこべに捉えてはいけない。

(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

〔解説〕

黄檗希運は、法華経に出てくる話をモチーフにして語っています。
自分の内なる本質に気づくことが大切であって、法則を求めることが重要なのではないということです。法則だけを求めると、それに囚われてしまうということなのだと思います。

分離の意識があるせいで、心が不安定になる。この物理世界の現象に囚われているせいで、真理がわからなくなる。そこで、多くの人は、分離意識を無くそうとしたり、現象を軽んじたりすることで、本質を掴もうとする。
しかし、その分離意識を無くそうとしている主体は何か?
現象を軽んじることで真理を理解しようとしている主体は何か?
という問題に踏み込んでいるのだと思います。

分離意識を無くそうとする主体も、結局、分離意識から生み出されたものではないか。
現象を軽んじることで、真理に至ろうとする、その全体の構造が幻想なのではないか。
そういうことを指摘しているのではないかと思うのです。

その大元の自我の意識が空になれば、すべてが自然に空になる。だからあらゆる悟りへの計らいは、自我の範疇にあるので、幻想でしかない、ということを言いたいのではないでしょうか。