伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.13 悟りは獲得できない

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.13 悟りは獲得できない

仏教的アドヴァイタ

9月1日、禅師は私に言われた。
達磨大師が中国に来られてからずっと、ただ一つの心だけを説き、ただ一つの法則だけを伝えられた。
それは、仏によって仏を伝え、それ以外の仏を説いたわけではなく、法則によって法則を伝え、それ以外の法則を説いたわけではない。
法則は、説明することのできない法則であり、仏は、把握することのできない仏である。
これが、清浄な本質の心である。
ただこれだけが真実であり、他のものは真実ではない。

般若とは智恵という意味だが、この智慧とは、イメージのない本質の心である。
世俗的な人は、自分の感覚器官に囚われて、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の6つの世界にしか生きることできない。
修行者が、一瞬でも生死のイメージに囚われてしまえば、魔界に落ちてしまうし、一瞬でも思考的な判断をしたら、道を間違えてしまう。

生じると思い、それを滅しようと意図したなら、幻覚の道に進んでしまうし、生じると思わず、ただすべてを滅しようと意図したなら、独善の道に陥ってしまう。
本質は、生じることも滅することもない。
二元的な思考を起こさず、排除することも求めることもせず、あらゆる法則は、ただ一つの本質の心だけであると気付けば、それが最高最上の教えなのだ。

世俗的な人は、みんな外的な対象を求めて、自意識が生まれ、その自意識が排除したり、要求したりする。
その外的対象を滅しようと思うなら、自意識そのものを忘れなさい。
自意識から離れれば、外的対象が空になる。
外的対象が空になれば、自意識は滅せられる。

しかし、自意識を離れないで、外的対象だけを空であると思い込もうとしたら、外的対象を滅することができず、余計に厄介な意識状態になるだけだ。
だから、すべての法則はこの本質の心だけであり、その心も獲得できる対象ではないのだから、いまさら何を求める必要があるだろう。

般若の智慧を学ぶ人は、獲得すべき教えなどなく、それぞれのステージに応じた教えなどないのだと気づく。
あるのは、ただ一つの真実のみである。
そしてそれは、証明したり獲得したりするものではない。

それを証明したり、獲得できると思う人は、霊的な思い上がりに陥っている人である。
法華経に出てくる話で、仏が法則を説こうとしたとき、そこからそそくさと退席した信者たちは、みんなこの思い上がりに陥っていた者たちだった。
だから仏は言った「私は最上の教えについて、なにも手に入れたものはない」と。
ただ、ダイレクトに深く気づくだけなのである。


(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

〔解説〕

黄檗希運は、本質の心にダイレクトに気づくしかないと言っています。
五感による感覚器官で捉えた世界によって、イメージを描いたり、思考による判断を働かせたりすると、間違った道に進んでしまうということです。

また、空を悟るには、自意識から離れなければならないと言っています。原文では「心」と書いてあるのですが、本質の心と区別するために、「自意識」と訳しました。
俺が俺が、という意識が自意識の一つのあり方ですよね。それを滅することができない状態で、たとえ外的な対象が空であると思い込もうとしても、そんなことは不可能だと言っているわけです。

そして、この本質の心は、欲望によって獲得するようなものではなく、ただダイレクトに気づくしかないものだと言っています。
空の教えについて、証明したり、獲得したりできるものではない。そんなことをする人間は、思い上がった人間(原文では増上慢)であると。

希運禅師は、もはやすべてが仏、すべてが神といった一元的な世界に入られた方なのでしょう。そこから見れば、確かにあらゆることは幻想でしかなく、あらゆる修行も、本質的には意味がないものになってしまうのです。

私たちは、彼のようなエネルギーに触れて、そこから気づくしかないのです。イメージや知識や体系によってアプローチできない世界なので、そのエネルギーに触れて、直観的に気づくしかありません。