伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.11 心を忘れる

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.11 心を忘れる

仏教的アドヴァイタ

世俗的な人は、外部の対象を選び、正しい道を歩む人は、自分の心を選ぶ。
その心も、外部の対象も、両方とも忘れてしまう、これが真実の法則である。

外部の対象を忘れてしまうことはまだ簡単だが、心を忘れることはものすごく難しい。
心を忘れることができないのは、虚空に落ちて、寄りかかる所がなくなってしまうと恐れるからだ。
しかし、空には、もともと空なるものはない。
そこにあるのは、あるがままの真実の世界、ただ一つである。

この霊性は、宇宙が始まって以来、空と同じ年月を重ね、生まれもせず、滅びもせず、存在しているわけでも、存在していないわけでもなく、穢れているわけでも、清らかでもなく、うるさくも、静かでもなく、若くも、年をとっているわけでもなく、方向も位置もなく、内も外もなく、数も量もなく、形もイメージもなく、色もなく、音もなく、探すこともできず、求めることもできず、知識で理解することもできず、言葉で表現することもできず、対象として認識もできず、努力で到達することもできない。

あらゆる仏と、生きとし生けるものすべては、この偉大な悟りの本性を共有している。その本性が心であり、その心が仏であり、その仏が法則である。
ただ一つの思考でもその真実の法則から外れてしまえば、すべては妄想になってしまう。

心でさらに心を求めてはいけない。
仏でさらに仏を求めてはいけない。
法則でさらに法則を求めてはいけない。

だから修行者は、ダイレクトに無心になり、直観で気づくしかない。心で思考を働かせたら、間違いになる。

心そのままで気づく、これが正しい見方である。決して外の世界に対象を求めることがないようにしなさい。
外的な対象を心だと思い込むのは、盗賊を自分の子供だと勘違いするようなものだ。


(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

〔解説〕
偉大な覚者であったJ・クリシュナムルティは、未知なるものを既知なる精神によって見出すことはできない、とよく言っていました。未知なるものというのは、神や悟りを指していて、既知なるものというのは私たちの心です。

私たちの心は、記憶によって形成されています。様々な体験を脳が断片的に記憶し、それを脳内で再合成して、世界を認識します。

このメカニズムにおいて、神や悟りを求めても、その神や悟りというのは、記憶の合成に過ぎないことになります。
記憶の合成であるなら、たとえ神と合一してサマーディ(至福)の状態になっても、それらはすべて自分の記憶が作り出した妄想に過ぎないことになります。

ただ、唯脳論者は、神や悟りも脳内現象に過ぎないと言ってしまうのですが、クリシュナムルティの場合は、脳内現象を超越したところに、本当の神や悟りがあると言っていたのかもしれません。

たとえば、最近はクラウドという仕組みがITの世界で広まっていますが、神をクラウドのサーバーに蓄積された情報だと解釈するなら、個人の脳は、そこにアクセスするハードウェアということになります。ハードウェアがクラウドの情報を生み出しているわけではなく、クラウドにアクセスしていることになるのです。

ですから、たとえ特定の脳の領域が発火し、脳内ホルモンが分泌されて、神を見たり、悟りの境地になったりしたとしても、その情報のすべてが脳によって生み出されたことにはならないかもしれません。

黄檗希運が言っているのは、心で心を求めるな、ということです。
これは、記憶で合成された神や仏、悟りというものが、その人の心が生み出している幻想に過ぎないと言っているのかもしれません。

そういう妄想を超越した領域に、本当の心が存在する。その心は、宇宙と共にあって、生じることも滅びることもなく、言葉では表現し得ないものであるということでしょう。

この本質の心にダイレクトにアクセスしなさい、と黄檗希運は伝えているのだと思います。妄想で仏を作り上げるのではなく、ダイレクトに仏そのものにアクセスすればいいということなのかもしれません。