末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.13 ~サインと意味づけ~

“サイン”は向こうから

これまでこの連載コラムで、ワクワクしながら楽しく自己実現をしていくうえで大切なことをお伝えしてきましたが、その根幹となるスタンスは“ゆだねる”ということであり、それは「ハイヤーセルフ(高次の自己)」や「ガイドスピリット」の声を聴き、導いてもらう在り方であると述べてきました。

「声を聴く」と表現すれば、「わたしにはそんな力はないからできない」と言って抵抗し――人生はほかでもない自分こそがコントロールできるのだと錯覚しているがために、「聴く」ことを心底怖れているというのが本当の理由であるということに気づかず――、夢の実現方法や「引き寄せ」のやり方など、目先のノウハウにばかりとらわれてしまう人が多くいます。

高次の自己の「声を聴く」というのは、何も難しいことではありませんし、特別な人だけができることではありません。たしかに、“声”として受け取れるチャンネルはあって、文字通り「聞く」ことはできるのですが、ガイダンスを受け取る方法はほかにもあります。

前回“直感”について触れましたが、“直感をもとに動く”というのは、感情の赴くままに行動するのとは別であり、ひらめきや何か心にピンとくる感じ、どうも気になる強い感覚、電気の走るような衝撃など、一瞬で心に知らされるものです。

“サイン”というのは、とてもさりげなく、すばやく送られてきます。「ただの偶然」だとか、「気のせい」にしてしまいがちで、たいていはアンテナを張っていなければ見落とします。

何かを急に思いつく、といったことに限らず、たまたま目に留まった本のタイトル、無意識のうちに口ずさんでいた曲の歌詞、なんとなくつけたときにやっていたテレビ番組、ばったり出くわした友人から聞いた話など、日常の「偶然」のなかにも、それはあります。

それを目にしたり耳にしたりしたとき、心のどこかが反応するのです。ふわっと、あるいは、ずばっと。「ん?」と思ったり、「あ!」と気づいたり、「え!うそ!」と驚いたり。鳥肌が立つことも。

あらゆる示し方で何度も同じメッセージがやって来るとき、それは“サイン”と見てよいでしょう。
スピリチュアル好きな人たちなら、こういった説明は当たり前のことで、何も新鮮味を感じられないことだと思いますが、「当たり前」に思っているからこそ気をつけたいことがあります。

「意味づけ」はこちらから

高次のスピリットにお願いをしたり祈ったりすれば、必ず答えは返ってきます。“サイン”は日常のそこここに散りばめられていて、ちょっとしたコツさえつかめば、受け取るのが楽しくなってきます。ぞろ目の数字を見たり、思わぬ方向から嬉しい情報がやってきたり、偶然に偶然が重なって驚く体験をしたり。

“サイン”に従って行動すれば、必ず物事はうまくいきます。思っていた以上の結果になることが多く、自分だけでなく、周囲の人々にとっても多分にプラスになることばかりです。これが習慣になれば、「苦労」が不要の毎日になります。

一度でもこの“サイン”を受け取れる喜びを知ったなら、エゴ(自我)の罠に一切かからなくなるかと言えば、そうではありません。エゴの罠を興味深いとさえ思ってしまいますが、“サイン”は“受け取る”ものであるにもかかわらず、「探す」ことをやってしまうときがあるのです。

たとえば、片思い中の女性が、「この恋がうまくいきますように」と祈ったとします。エゴの罠にかかっていると、“ゆだねる”ことができません。そういうとき、スピリチュアル好きな女性がやりがちなのは、「彼とうまくいく」ということを示してくれる「しるし」を探し出そうとすることです。

たまたま雑貨屋さんでキューピッドの置物が目に留まった、とか、彼のことを考えながらデパートを歩いていて、ぱっと横を見たらウェディングドレスが飾ってあった、とか。すれ違った車のナンバーが彼の誕生日だった、偶然テレビ番組でかかっていた曲が両想いの歌だった。こんなにもサインがいっぱい来るんだから、絶対うまくいくんだわ。

日常のなかにあるであろう“サイン”を、いちいちこちらから見つけ出しては、うかれる。でも、現実が伴わない。相手からは電話もメールも来ない。はたから見ていれば、それって思い込みでしょう、と思うのですが、本人は“サイン”だと信じ切っているのです。
いえ、正確に言えば、わかっています。それらは“サイン”でも何でもなくて、自分で「意味づけ」しているだけだということを。本当はわかっているのに、認めたがらない。エゴはいつまでも、自分をとらわれたままにしておきたいのです。

“サイン”か「意味づけ」か。それを確かめるポイントは、そのことについて全くとらわれがないかどうか、という点です。
「この恋がうまくいきますように」、「夢が必ず実現しますように」。そう思うのは、一種の執着があるからです。「どちらでもいい」と思えているとき、“サイン”を“サイン”として受け取れることでしょう。
とらわれたり、こだわったりしていると、「意味づけ」をします。そうでなくても、わたしたちは自分の都合のいいようにしか物事を見ることができません。

“答え”や“導き”は向こうからやって来ます。与えられるものなのです。不安や焦燥、怖れを抱いて、血眼になって探し出すようなものでは決してないということを、忘れずにいたいものです。

 

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