末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.9 ~“都合”と“流れ”(その2)~

末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.9 ~“都合”と“流れ”(その2)~

判断基準の根底は

人生を、毎日を、いまこの瞬間を“ゆだねる”こと、自分の勝手な“都合”を脇に置いて“流れ”に従うことの大切さについて、PART.7【「ゆだねる」強さ】PART.8【“都合”と“流れ”(その1)】で述べてきましたが、今回はさらに深めてみたいと思います。

まずは“都合”から。わたしたちは、自分にとっての“都合”を大事にし、それをもとにあらゆることを裁いています。物事をどう見たいか、相手をどんな人として見たいか、それらを全部自分の“都合”で決めています。
自分に都合良く生きていて、都合良く世界を見ている、というと、自己中心的に聞こえますが、実際そうなのです。

電車が予定時刻を大幅に過ぎて到着した。遅刻してしまう自分にとっては、腹の立つ出来事。
虫の居所が悪い時はきまって小言を言ってくる上司。劣等感を持っている自分には、うざい奴。

いつもの電車に間に合わず次の電車に乗ったら、しばらく会っていなかった親友と出会えた。嬉しい出来事。
心優しい同僚は、いつも仕事を助けてくれて、頼めば嫌な顔せず休みを交代してくれる。本当にいい人。

思い通りになっているかどうか、期待通りの反応、答えが返ってきたかどうかで、「良い」・「悪い」を決めています。

相手のために良かれと思ってしていることでさえ、自分の偏った見方で行動していることがよくあり、表向きは「親切」でも、裏面的には単なる「取り引き」を持ちかけている場合が多くあります。「親切」を与えることによって、自分が何か得をすることがあるから、そうするのです。

親が子どもに、難関大学に合格することを、安定した職に就くことを、「あなたのためよ」と言い聞かせるのは、本当にその子のためなのでしょうか。そうならないと困るのは誰なのでしょう。

デイケア施設になかなか行きたがらない老親に「行かなきゃだめでしょ」と言う、その気持ちの奥には、罪悪感がないと言い切れるでしょうか。行くことで安堵するのは誰なのでしょう。

“都合”とは、自分の個人的な見方によるものであり、常識、体裁、自分の快・不快が基本となるものです。自分勝手な要素があるいっぽう、それは実際のところ、非常に「不自由」、制限のあるもので、「怖れ」と表裏一体となっています。

開かれた手

それに対して、“流れにゆだねる”、とはどういうことなのでしょうか。
“ゆだねる”と言っても、何もしないということではありませんし、人任せで依存的に生きるわけでもありません。

物事にケチをつけない、相手をコントロールしようとしない。自分の“都合”を判断基準にせず、どうすればいいのか迷ったら、「真の最善へと導いてください」と祈り、その後やって来る直感、ひらめき、自然と湧き立つ思いを大切にする。

「問題」に手を出すより、“預ける”ことが肝要です。わたしたちはどうしても「問題」を複雑にしてしまうし、ごちゃまぜにしてさらに「問題」をつくり、ややこしくしてしまうものです。実際には「問題」でもなんでもなかったとしても。

「良い」のか「悪い」のか、「正しい」のか「間違っている」のか、その判断を“自分の都合”によってゆがめて行ってしまうのだから、わたしたちにできることと言えば、“ゆだねる”、“預ける”ことだけなのです。
「みんなが言っている」、「大多数はそう思っている」は、当てになりません。数の多さが「正しさ」を証明するのではありません。時代が変われば、そういったものはいくらだって塗り替えられるものです。

“流れ”を信じることができると、“すべてはうまくいっている”ことが感じられるようになってきます。この、“うまくいっている”というのは、“自分の期待通り”ということではありません。“都合”を脇へ置かない限り、いつまでも自分の理想や期待にしがみついてしまいます。

川を流れゆく木の葉となって、歩むスピードも、道のりも、いつ何に出逢って、どこで立ち止まるのかも、全部を“ゆだねる”と、たとえどこかの岩にぶつかっても、それで停滞したとしても、文句を言って怒ったり、あの岩が悪いとぼやいたり、すいすい進む周りを見て落ち込んだりすることがなくなります。

何度だって、“都合”を握りしめる自分に気づいたら、その手を開いてすべてを天に預けたいものです。
開かれた手だけが、“ギフト”を受け取れるのですから。

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