エンジェル・セラピスト®夫婦のスピリチュアル子育てPART.27~命より大切な「承認と愛」(潤治編)

baby

「生存すること」と「存在の肯定」は等しく求められるもの

つかまり立ちをして、自力で立つ練習までし出した娘の小葉は、徐々に自分の世界を作り出してきたようです。今までとは違う景色は僕たち大人が想像する以上に新鮮で感動するものなのでしょう。娘の小葉はその感動を分かち合いたいのか、認めて欲しいのか、しきりに立ち上がっては

「見て、見て!わたし立てているでしょ?すごいでしょう?」

と誇らしげにこちらを見てきます。そして、習ったベビーサインで何かしらを伝えようとします。ベビーサインについてはブログでも紹介しております。
「赤ちゃんとの対話するチャンネルを増やす」

そしてその姿を認め、声をかけたり、身体に触れたりすると満足げな表情を見せて、再び自分の世界へ戻っていきます。そうしたことが可能なのも愛情欲求が満たされているからだと娘の言動に教えられます。我が家ではそれを「ママ充電がなされている状態」と呼んでいます。

母親の寛子に対しての「私を見ている?ちゃんと見ている?傍にいる?」という娘の欲求はしばしば生存を賭けたものになることがあります。生存することと存在の肯定は等しく求められるものなのだと小葉を見ていて思います。

娘の「身を挺した承認欲求」と
日々向き合いながら感じること

ひとり遊びが出来ていると思って、少し意識を娘から離すと、娘は怒り出したり、泣き出したりします。もしくは危険な遊びをして身体を張って自分への注目を集めようとします。

「今、わたしはとても危険な状態です。助けないとまずいことになりますよ。」
と言っているかのようです。

その警告を無視し続けると大袈裟に転んで泣き始める娘の声が聞こえてきます。身体を張って、自分の存在を承認して欲しいというわけですね。

ですので、その行動をとった娘に、
「危ないでしょ?こういうところに登らないの?!」
「何でそういうことするの!?」
と僕たち大人の恐怖心から怒るのではなく、

「ごめんね、寂しかったね。」
「今日はよくやったね、えらいね。」
「ありがとう、愛してくれて、ありがとう。」
「大丈夫、きみのこと、大好きだよ。」
と伝えるほうが、娘の「身を挺した承認欲求」と向き合えているような気がします。

そして、その「身を挺した承認欲求」はとても素直に表現され、その娘と向き合っていると僕自身も次第に感情的に成長していくのだろうと感じます。

もし、その「身を挺した承認欲求」が満たされることなく、大人になったとしたら? それを感じながら、娘のありのままの承認欲求をありがたく思う日々です。僕たち両親を使って、その承認欲求を存分に試して欲しいと思っています。

heart

人間関係で相手を試すことがないとしたら、
本当は何をするだろうか?

人間関係で相手を試すことがないとしたら、本当は何をするだろうか? 僕自身に問うことが多々あります。もう少し、僕の生活に根ざした言い方をすれば、

「僕は奥さんである寛子を試すことで愛情確認をする必要がなければ、どのようにコミュニケーションを取るだろうか?」

でしょうか。

僕自身、恋愛では相手を試すことが多々ありました。
「このような僕でも愛してくれるの?ほら、やっぱり信じられないでしょ?僕を。」と相手を傷つけ困らせ、相手と愛を紡ぎたいと思いながら、破局を願うという支離滅裂な男でした。

残念ながら長い間、付き合っては破局するというパターンがどうして起こるのか分からずに迷走し続けました。ですので、僕の愛情欲求は常に更新され、その求め方も複雑になっていきました。

「いやぁ、昨日、徹夜しちゃって全然寝ていないんだよ。」と苦笑いする僕が欲しいものは、「大丈夫、わたしが手伝うことはない?」という相手からの関心であり、献身です。それを愛とすり替えていたわけです。

そして、また、「小さい頃に親が離婚してね、片親であることを恥じたものだよ。」と飲み屋でお酒を飲みながら、厭世的な台詞を吐く僕が欲しいものは、「わたしがその寂しさを埋めてあげるから。もう寂しい思いをさせないから。」という相手からの無条件の愛であり、慈悲や慈善です。

娘の小葉のように素直に、「わたしを愛して欲しい、片時も離れないでいて。」と伝えることができれば良かったのですが、僕は自己憐憫を撒き餌に相手の「何かしてあげたい」という優しさをうまく捉えて利用するわけです。

僕にとっても認められること・愛されることは命よりも大事なことだったのでした。その求め方が複雑だったのです。そのためにわざと体調を崩すようなことをしたり、連絡が取れない状態にしたり、無謀な車の運転をしたり、無茶なお酒の飲み方をしたり、仕事にのめり込んでみたり……そうした「身を挺した承認欲求」は僕の人生の大部分を占めるようになりました。

しかしながら、大人になってまで「身を挺した承認欲求」をし続ける必要はないと感じます。

人間関係で相手を試すことがないとしたら、本当は何をするだろうか?

その問いをして返ってくる答えは、

「もっと自由に人生を楽しんで良いし、生まれてきた意味を存分に感じようと自分の喜びを追求するだろう。その喜びを多くの人と分かち合うだろう。」

これをもう少し、僕の生活に根ざした言い方をすれば、

「もっと自由に家族での生活を楽しんで良いし、娘が生まれてきた意味を夫婦で存分に感じようと共有する機会をもっと作るだろう。そして、その喜びを仕事という愛の表現によって分かち合っていきたい。」

となります。

あなたにとって、「承認と愛」の歴史はどのようなものですか?