娘に芽生えた所有の概念
おもちゃで遊ぶようになってきた愛娘 小葉ですが、おもちゃが入ったバケツを嬉しそうに見ている姿はとても可愛いものです。
「これ全部、わたしのもの。」
という気持ちなのでしょうか。
先日、小葉よりも少し年上の女児が我が家に遊びに来てくれました。
まだ、立つことができない小葉とは違い、スタスタと歩き回っていました。
行動範囲の広さに驚きながらも、娘の小葉は自分のペースで遊んでいました。
たまに撫で合ったり、触れ合ったりしていました。
その彼女が小葉のおもちゃを手に取っていると、小葉はとても不思議な顔をしていました。
「あれ、わたしのおもちゃを何で?」
と言いたそうな目で彼女を見つめていました。
小葉のお気に入りのおもちゃで彼女が遊び出すと、堪らず、「あー!」と声を張り上げました。
「それ、わたしの!」
と言っていたようです。
すぐに彼女はそのおもちゃを離して、譲ろうとしてくれました。
その姿に小葉も満足気。
自我が芽生えてきて、それと同時に「所有の概念」も芽生えてくることを感じる場面でした。
所有の概念のないアボリジニ
所有するという感覚のために、僕たちは奪われる怖れ、失くしてしまう怖れなどを感じるのかもしれません。
その概念が無ければもっとシンプルで穏やかな生活ができるのではないでしょうか。
オーストラリアにおいて先住民であったアボリジニの人々には所有するという概念が無いそうです。
自然の創造物であるものを所有するという感覚が無いわけです。
それゆえに先住民であるアボリジニのもとに開拓者は侵入し、露骨に土地を略奪していった歴史は正当化されています。
誰のものかという感覚が歴史上、奪い合いや争いを生んできたのかもしれません。
所有したいという人間的な自我(エゴ)は何故芽生えるのか?
所有したいという人間的な自我(エゴ)が芽生えるのは何故なのだろうと思います。
所有したいと思うと、それは独占欲や嫉妬、コントロールや競争、争いに繋がるでしょう。
所有していると思える時には、虚栄心や承認欲求が満たされてかりそめの安心感を得るでしょう。
所有できないと思えば、それは劣等感や挫折感、罪悪感や無価値観に繋がるかもしれません。
所有という概念が早い段階で心に宿るのは、それに僕たちが振り回されるためではなく、それを上手に活用しつつ、次の感覚に向かうのが魂のプログラムのように思います。
つまり、何かを所有することよりも分かち合うこと、すべてのものと調和することこそ魂が望んでいることなのかもしれません。
わざわざ所有の概念を自我として芽生えさせるのは、より多くの学びを人生を通して経験したいと思っている魂の設計図なのだろうと感じます。
所有の概念による痛みは日常に至る処にあります。
人間関係・恋愛・仕事・お金・健康・知識……。
人間関係では相手がこちらが思っているどおりの人ではなく、裏切られたと感じたり、その裏切りが無いように契約書を交わすといったことをするかもしれません。
恋愛ではお互いにそのような権利は無いのに束縛し合うかもしれません。
相手がしてくれて当然と思うのも愛を担保にした要求であるかもしれません。
仕事では結果に対する評価や対価を自分のものと思ってしまう場合も多々あり、その感覚は傲慢さや虚栄心、競争意識に繋がり、より痛みや怖れを増幅させるかもしれません。
お金は確かに僕たちの所有欲求を上手に変換して、成長する機会を与えてくれますが、それに振り回されると自由や穏やかな気持ちからは遠い日々になるかもしれません。
健康もそれが何のために必要なのかを見失うと手段が目的になり、自分にも周りにも厳しい菜食主義者のようになってしまうかもしれません。
知識も所有するよりも多くの人と分かち合うことで先人たちの思いは果たされるかもしれません。
知的財産という感覚、著作権という考え方もひとりひとりの「自ら足る意識」があれば必要のない感覚かもしれません。
肉体を脱ぎ、魂になった時にそれは分かるのかもしれません。
それぞれに特有の痛みがあり、それを乗り越えるために頑張ることよりも、始めから所有することができないものとして観てみることも霊的成長を促すかもしれません。
少なくてもそういう意識を持つこと、魂に正直になることは意識していきたいと、愛娘 小葉を観ながら僕自身、感じるのでした。