我々に与えられた選択の自由というもの~アボリジニとマザー・テレサの言葉から

大いなるものに心を合わせて生きることを選んだ人たちに
共通する真実とは

こんにちは☆はらかえです。

私の大切にしている“ミュータントメッセージ”という本に、オーストラリアの原住民であるアボリジニの方たちが毎朝の祈りの中で

「私にとって最高にいいことならば、生きとし生けるものにとっていいことならば、与えてください。」

と自分の叶えたいことについて聖なる一体と心を合わせるシーンがあります。
彼らが“聖なる一体”と呼ぶ存在は、あるところでは大いなる宇宙とか神などと呼ばれているものだとされています。

この祈りに心を合わせる時、その時の自分に必要な気づきを与えられます。
「ゆだねる」ということについて。
「信じる」ということについて。
「広がる」ということについて。
自分の「いいこと」に対する価値判断について、その固さ。
ゆだねる気持ちよさ。
信じる気持ちよさ。
広がる気持ちよさ。
降参する気持ちよさ。

そして彼らは、朝の祈りが叶えられた時それを当たり前として受け取ることは一度もなく、与えられる度にその奇跡に感動し、その度に感謝の祈りを捧げます。

この感謝の祈りに心を合わせる時、ハートが大きく広がるのが分かります。
愛されているのを感じ、かじかんでいたハートが溶け出し、自分に今日関わってくれたすべての存在のありがたさに気づきます。
一つひとつの小さな出会いとも呼べないような触れ合いの中にさえも愛が詰まっていたことに気づかされます。

そう見えなかったのは、ただハートがかじかんで固く小さくなっていたからで、ほぐしてみたら、出会う人すべてが自分にとっての教師であったこと、そのありがたみに感激します。

私はマザー・テレサの詩はこれしか知りませんが、気づけば長い年月この最後のフレーズを何度も繰り返し読み返しています。

「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。」

この言葉が本当に胸に沁みる時、ゆだねることに抗わない澄んだ自分を感じます。

「私にとって最高にいいことならば、生きとし生けるものにとっていいことならば、与えてください。」
と毎朝聖なる一体に祈るアボリジニたちと
「あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。」
と言ったマザー・テレサとは、きっと会ったことも話し合ったこともないのだろうけれども、大いなるものに心を合わせて生きることを選んだ人たちに共通する強さや柔らかさ、謙虚さや動じなさがあり、共通する真実を胸に持っているのを感じます。

その共通する真実が、“聖なる一体”“大いなる宇宙”“神”の心であって、自分がそうしようとさえすれば、自分にとっての真実になり、自分の心になるのだろうと思います。

同じように、自分がそうしようとさえすれば、大いなる自己責任と共に自分の中の真実は思うようにどうにでも変えられるのだと思うのです。それが、我々に与えられた選択の自由というものなのでしょう。