末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.8 ~“都合”と“流れ”(その1)~

実現したい思いの「よりどころ」は?

前回の記事【「ゆだねる」強さ】で、かつて「自分の人生の道筋は自分で決める」という思いを抱いていたこと、そしてそれは間違いであったことについて述べましたが、今回はこの思いについて深めてみます。

「自分の人生の道筋は自分で決める」。たしかに、自由意志によってある程度決めることができるし、この世界はまぎれもなく、“自分の信条の証拠”なので、自分の思考、観念、価値観によって、よく言われる「引き寄せの法則」を利用して、いくらでも「つくり上げる」ことができます。

「引き寄せの法則」に傾倒していようといまいと、思考と行動が“一致”していれば、誰でも自分が求める結果を手に入れられます。
だから、欲深い人間であろうと、謙虚な善人であろうと関係はないし、何を求め、何を自分の人生に引き寄せようと自由であって、頭脳(顕在意識)と肚(潜在意識)が“一致”し、思いと行動が“一致”し、首尾一貫してさえいれば、引き寄せることは実に簡単なことです。

難しいと感じるなら、それはどこかに“不一致”があるからで、巷では、この“不一致”の調整に関して、潜在意識にある思い込みを書き換えるといった内容の、あらゆるヒーリング法やツールが利用されています。

それが悪いとは言っていませんし、否定しているわけではありません。かつてわたし自身もそれに取り組んでいましたし、そうやって、前回の記事で少し触れましたが、“最も重要な何か”に辿り着くためにあらゆることを試してきました。

ただ、気をつけたいのは、何のためにそれをするのか、何を基盤としてそれに取り組むのか、ということです。

いい暮らしがしたい、まとまったお金がほしい、仕事で成功したい、出世したい、パートナーがほしい、子どもがほしい、ラクして生きていきたい、人から認められたい、といった自分にとっての“都合の良い結果”を出すために取り組んでも、これは後々、「失敗」、「苦労」します。

ゆだねられない理由

前回の記事で、「ゆだねる」ことが大切だと述べました。自我(エゴ)による計画を立てずに、人生を“流れ”に任せる、人生そのものを天に明け渡すことが大事なのだと。

わたしには、これに強く抵抗していた時期がありました。
ゆだねたくない。流れに任せるというのは、無能な人間の生き方だとさえ――今思うと信じられない馬鹿げた発想ですが――思っていました。自分で決めて行動し結果を出せない人々の、投げやりな生き方にしか見えなかったのです。

わたしこそ、間違っていました。どうかしていました。

ゆだねたくないのは、自分の人生、自分の世界、この世界を牛耳っていたいからです。
支配して、自分だけが思うさま制御できる世界の中で、我を通していたいからです。

そして、全く自分の思い通りにはならないこと――良いこともあれば悪いこともある、山あり谷ありの人生で、ときに不測の事態や悲劇があること――を、心底怖れているからです。

わかっているはずです。願った現実を引き寄せること、具現化することができるとしても、どうしたって、少しも支配することなどできない、人生はコントロール不可能なのだということを。

諦めきれないのは、うまくいくときがあるからです。
自分が自分の力で人生をつくり、コントロールし、自分の思う幸福を手に入れられる、だから天にすべてをゆだねたくはない、できないと思うのです。

頑張ればうまくいく。努力した人間はいつか報われる。
そういった信念を掲げて。

実際に結果を出し、うまくいっているときは、コントロールが可能だと思えてくるものです。いい気になります。そしてそんなとき、“最も重要な何か”には気づけません。

一方、うまくいっていないとき、自分にとって“都合の悪いこと”が起きたときはと言うと、それを「ねじ曲げられる」とどこかで信じています。

どうにか説得して相手に理解してもらおう。どうにか動き回ってなんとか解決しよう。
そんなふうに思いながら。

「ねじ曲げ行動」がうまくいくときがあるから、これこそ自分だ、自分には力があるのだと思い込み、「ゆだねる」ことができずにいるのです。

「頑張り行動」と「ねじ曲げ行動」が成功した(かに見える)ときは、わたしたちは自我(エゴ)への信念を強め、それらが失敗した(かに思える)ときは、「攻撃」に出ます。

こうなったのは相手が悪い。こうなったのは自分が悪い。「他罰」か「自罰」です。とにかく誰かを責める。非難する。

わたしたちは自分にとっての“都合”を大事にして、ものごとの良し悪しを判断し、“流れ”を自分で決めたがり、思い通りにならないと怒る。勝手なものです。
そのような生き方が、本当に幸福な生き方と呼べるでしょうか。

「ゆだねる」こと以外に、本当にできることはあるでしょうか。

自分にとっての“都合”をもとに我を張る生き方をやめて、手ぶら、丸腰で、ただ無防備に、川を流れゆく木の葉となってみるとき、最初からずっと“最善の流れ”に乗っていたのだということに気がつけるのかもしれません。

“都合”と“流れ”については、次回さらに詳しく扱ってみたいと思います。

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