伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.9 無欲・無執着だけを学べ

伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.9 無欲・無執着だけを学べ

仏教的アドヴァイタ

修行者よ、疑ってはいけない。肉体は、地・水・火・風で出来ている。地・水・火・風には自我はない。主体もない。したがって肉体には自我もなく、主体もない。

心は、色・受・想・行・識によって生じる。色・受・想・行・識には、自我はない。主体もない。したがって心には、自我もなく、主体もない。

眼・耳・鼻・舌・身・意と、色・声・香・味・触・法と、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識が集まり、生まれ、消えていく様も、同じである。これらは実体のない空なるものなのだから、これらの要素から成るあらゆる存在も空である。ただ本質の心だけが存在していて、どこまでも清浄なのである。

声聞と呼ばれる修行者たちは、仏の声を聞いて悟りを得る。だから声聞と呼ばれる。彼らは自分の心の本質に気づかず、仏の教えだけを聞いて理解しようとし、あるいは超能力や、仏の美しい姿、言葉、振る舞いを見たり、悟りの境地があると聞いたりして、永遠の期間、修行に明け暮れている。これらは、声聞道と呼ばれていて、声聞仏になる道である。

ただダイレクトに、自分の本質の心が仏なのだと気づいて、一つの教えも得ることもなく、一つの修行も達成することもないのが、無上の道と呼ばれている。これが真如仏になる道である。

修行者が、たった一つでもそれが有ると考えてしまったら、本来の道から外れてしまう。

イメージには実体がなく、イメージには働きがないことに気づけば、これが仏そのものなのだ。

修行者が仏になりたいと思うなら、一切、教えを学ぶのではなく、ただ無欲、無執着だけを学びなさい。求めることがなければ心は生じないし、囚われることがなければ心は消えない。この生じることも消えることもないものが仏なのだ。

8万4千種類もある悟りへの方法論は、8万4千種類の煩悩に対応していて、これらはただ教習所の入り口のようなものである。

本当は一切の方法論はなくて、それらから離れることこそが、本当の方法なのである。離れることを知る者が仏である。

一切の煩悩から離れてしまえば、個々の方法論など必要ないのである。

(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

「本当の私=仏」

黄檗希運は、ここで仏教での認識論を提示して、それが実体のないものだから、そこから生じる自我も実体のないものであると述べています。私が私であると思い込んでいるこの自我は幻想に過ぎない。その奥に、「本当の私=仏」が存在しているということなのでしょう。

黄檗希運は、心を、二種類の意味で使っているようです。普段私たちが自分だと認識している心と、その奥にある本質的な心です。黄檗希運の教えは非常にシンプルで、私たちの本質は仏であり、すべての本質も仏なのだから、ただそれに気づきなさい、ということのようです。

しかし、シンプルですが、それを実感するのは難易度が高いかもしれません。なぜなら、従来の修行法をすべて否定し、方法論そのものから離れろと言っているからです。これは、J・クリシュナムルティの方法論の否定と全く同じです。

たしかに、様々な修業によって、自分の内部にある仏や神のイメージが強化されてしまい、幻覚や妄想が生じ、自分は悟ったという思い込みが生まれるかもしれません。

本当の悟りは、そのような認識を超越した領域に存在しているので、方法論によってはたどり着けないということなのかもしれません。

 

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