古来の「大和言葉」に根付く、日本人のスピリチュアリティー

「いきる」の大和言葉は「いき(息)する」こと

今回は、ちょっと語学っぽい話題です。
「志(こころざし)」という漢字は小学校5年生の時に習うけど、習った時にふと、このように思った人が多いのではないでしょうか。
――「こころざし」って、心で目指すわけだから、「心指し」と書いてもいいんじゃないの? なのに、わざわざ「志」という一文字があるんだ……、と。

きっと古代の日本にもともと、大和言葉としての「こころざし」という言い方があったのでしょう。
そこに、大陸から漢字が伝わってきた。そして「こころ」という言葉には「心」の漢字を充てた。
一方で「こころざし」には、その意味に対応する「志」という漢字があったものだから、その字を充てるようにした――、といったいきさつなのだと思います。

同じような例は、ほかにも色々と挙げられます。
例えば「獣(けもの)」は、シカやイノシシなど毛に覆われた生き物ということで、もともとの大和言葉では「毛物」ということだったのでしょう。さらに、「醜(みにく)い」は「見にくい」、「象(かたど)る」は「形取る」――。
これらも、大和言葉と漢字とを対応させる過程で、今のような書き方になったといえます。

大人になったら、前述の「志」のような疑問なんて気にも留めなくなり、誰も当たり前に使っています。
でも、現代でも口にしている大和言葉をちょっと意識して考えてみると、「へぇ、昔の日本人はそんなふうに考えていたんだ!」と気づいて感心することもあります。

たとえば「いきる」は、漢字では「生きる」と書くけれども、もとの大和言葉は「いき(息)する」から来ています。つまり「生きる」とは「息をする」こと――。
古代人は、呼吸をまさに命が活動しているあかしとしてとらえ、そのように言ったのでしょうね。

また「おそれ」という言葉には、「恐怖」の意味とともに、「大雨のおそれがある」とか「おそらく」とか、将来の予想とか自分の推測の意味もあります。
ふだん口にする時には何も考えずに使い分けているけど、もとは同じ「おそれ」です。つまり大和言葉では、「予想や推測」イコール「恐怖」であるという、心理的な事実がきちんと把握されていたわけです。

さらに「あやまる」も、「ハンドル操作を誤る」と「ごめんなさいと謝る」の2種類の漢字と意味があるけど、これも大和言葉はどちらも同源だそうです。
つまり「誤ったら謝る」ということ。論語に「あやまちては、改むるにはばかることなかれ」とあるけれど、そんな教えが入ってくる前から、日本人はその通りに考えていたともいえるでしょう。

極めつけなのが、古い詩文に出てくる「うつせみ」という言葉――。「うつせみ」とは、「この世の中」とか、そこに「生存している身」の意味です。
この言葉のもとは「空蝉」すなわち「セミの抜け殻」とか、映った影を表す「映し身」だといわれます。これって、ズバリ言い当てていますよね……。

古代の日本の人々は、仏教とかプラトン哲学とかを知る前から、人の本質が肉体ボディーでないことや、この世界が投影された幻であることを分かって、言葉の上に表していたわけです。これは、なかなかすごいことだと思えませんか――。
だから、そうした世界観や文化を言葉の中に引き継ぐ日本人は、最近のスピリチュアルな考え方にとてもなじみやすいのだろうな、とも思います。