末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.6 ~「自信」と「確信」~

末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.6 ~「自信」と「確信」~

相対的な意味合いにおいての「自信」

自分の本当の内なる輝きを呼び覚まし、ミラクルを体験しながらハートがワクワクして楽しめる自己実現の方法について、連載の形で毎月お届けしているこのコラムですが、今回は前回の続きで「自信」について振り返りながら、「確信」に関して触れていきたいと思います(前回の記事はコチラ)。

「自信」という言葉の辞書的な意味は「自分の能力や価値を確信すること。自分の正しさを信じて疑わない心。」(広辞苑 第六版)ですが、
多くの人が「自信が持てたらいいのに」と言っている、その「自信」は、相対的な意味合いを持っていることがほとんどです。
誰かとの「比較」や「競争」において、「勝つか負けるか」が大事だし、優越感を持てたら自信が持てる。誰かに勝っていたい、優っていたい。そのことで自信をつけたい、持っていたい。

「いや、自分はそんなふうには思っていない。」と思う人もいるかもしれませんが、もしそうなら、「自信がない」と思うことも全くないはずで、「自信を無くす」ことも絶対に(永遠に)ないはずです。辞書的な意味で言うところの、「確信」があるのですから。
それは望ましいことです。それなら悩まないし、落ち込まない。自己実現が果されます。

ここでは、そうでない方、「自信がない」と落ち込んでいる方や、「自信を無くす」ことがある方に向けて、たとえそうであっても、どなたでも自己実現が可能なのだということを、あらゆる自我(エゴ)の罠を見破っていきながらお伝えしてまいりたいと思っています。

そう、自我(エゴ)のトリックに引っ掛かってしまっているだけで、誰にでも無限の力があるのです。「自信がない」と言い訳して進まないのは、その人が無能だからではありません。
さて、話を元に戻しますが、相対的な意味合いにおいての「自信」というものを、多くの人がなぜ持ちたいと望むのかと言えば、「自分は特別」の精神を持っていたいからです。
そういう人の特徴として、有能な人が好きですし、一種の「信者」になりやすいきらいがあります。
自分もそのように特別視されることを密かに望んでいるので、「特別性」、「才能」、「秀でる特質」といったものを持つことに、そしてそれを有している人物に強く憧れます。

けれども、自分にはたとえばカリスマ的要素やたいした能力がないと思ってもいるので、自己嫌悪感が拭えず、「自分こそ特別でいたい」という思いと、「自分はたいしたことはない」という思いの狭間で悶え、葛藤することになり、このカオスから抜け出るには「自信」が必要だと考えるわけです。

「自信」があれば、つまり、誰かより優れていれば「特別」でいられると勘違いしているのです。100年かけたって、そんなレベルの「自信」は本質的に手に入ることはないし、あると錯覚していたって、そんなものはすぐに、見事に崩れ去るので、ちっとも幸福感は得られないでしょう。

絶対的な「確信」

誰かと比べても仕方ありません。「比較」や「ジャッジ」を通して、心から安定した「自信」を得られるわけがないのです。

まだましだと言えるものがあるとしたら、「誰か」とではなく、過去の自分と比べているほうが幾分は安らかでしょう。
「あの人よりはできる」というのは実にくだらない考えですが、「前よりはできるようになった」というのは、自己承認、自己信頼につながっていくので、そこで感じる「自信」は、さらに先へと進むための原動力になるかもしれません。

ただ、それが過剰になると、「頑張ってきた自分は、怠けている者より優れている」のだとして、努力しない人を批判することにつながり、できない人を責めたり、行動させようと躍起になることがありますし、怠ける自分を受け入れられなくなることもあるので、気をつけたいところです。
大事なのは、誰かと比べて得た優越感によって「自信」を持つことではなく、無条件に本当の自分の力(自我のそれではない、森羅万象とひとつの自分のソース)を「確信」することだと前回書かせていただきました。

辞書にもある、「自分の能力や価値を確信する」というのは、相対的なものを土台とするのではなく、絶対的なものに依拠するべきでしょう。
誰にでも能力はあるし、どうであってもみな価値があるのです。そう思えないとしたら、それは「条件」や「裁き」から逃れられないからで、
「善し悪し」というジャッジでしか人や物事を観ることができないからです。

「過去」は、「確信」――自分は(誰もが)無限の能力を持っており、愛や幸福に値するのだと信じて疑わない心――を持つことと何の関係性もありません。今までの自分がどうであったか、何をどのくらいできたのか、誰にどのように誉められたか、どんな結果や成績を出せたかといった「過去」のデータが、「確信」の裏付けになるのではありません。

この世界そのものの中で、「確信」の根拠を見つけることはできないことでしょう。
この世界は、「比較」や「競争」、「嫉妬」や「攻撃」でできているからです。だからと言って、「比較」による「自信」を持とうとする必要はありません。「確信」の根拠は何らかのデータ、形あるものではありませんが、そのソースから、わたしたちに「直感」を通してもたらされるものはあります。肉眼では捉えられないものであっても、この「確信」を強めてくれるものは、確かに在るのです。
また紙面(?)がなくなってきました。この続きは来月までお待ちいただければと思います。
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