父親の存在意義
僕たち夫婦(潤治&寛子)はお互いにアラフォーを越えてから、ご縁に恵まれ、愛娘このは(小葉)を迎えることになりました。当サロンにお越しになる方々は年齢も職業も多種多様であり、いろいろなお祝いをいただきました。
先日はそのお返しに日頃からお世話になっているお姉さまたちを迎え、このは(小葉)を囲む会を催しました。
このはという新しいご縁をいただき、その新しい命の引き寄せる力は大きく、新しい仕事を頂いたり、ご縁が広がっているように思います。当サロンで皆さんを迎える時も、送り出す時も笑顔をみせる彼女のあたたかさを尊敬します。
そんな彼女の神々しさに比べ、パパである僕の存在意義が問われる事態が発生することがあります。
寝かしつけや一緒に遊んだりすることは僕にもできますが、
「ママのおっぱい欲しい」という人間の三大欲求のひとつをママの代わりに請け負うことはできません。さっきまであんなに笑顔でいたのに…、一緒に笑いあった仲なのに…「ママぁ~ママぁ~(…と言っているように聞こえる)」と僕の胸の中で泣き出します。
それはたとえ、搾乳しておいたおっぱいをほ乳瓶で飲ませてみても、トーンは下がりますが泣き続けます。
ママに抱かれて眠りたいという欲求も合わせて、「絶対ママ宣言」です。
ママがお風呂に入っている隙に大泣き…。
泣き疲れて目に涙を残しながら、
眠る彼女を見ていると、パパ無力…と思ってしまいます。
すっかり自信も失くし、へとへとになります。
ママ 寛子がお風呂から戻ってきて、愛娘がその胸に安心して抱かれている姿を見ると、その無力感は増大していまうのでした。あんなに泣いていたのに…。ママの胸ではそんな安心した顔を見せるのですか。そうですか、ママに抱かれるとこうも安心しますか。僕じゃあ、駄目ですか。
ひとしきりネガティブな気持ちを味わいきると、天啓を得るような状態になります。インスピレーションという形で、僕に本質的なことを教えてくれます。「ああ、そうか…、僕はこのはに要求をしていたんだな」僕が彼女を可愛がっている時、彼女が笑顔でいることに喜びを感じ、パパとしての責任感や満ち足りたものを獲得していたわけです。
親として愛を与えているようで、愛を担保にして、彼女に見返りを要求していたのかもしれません。「愛していると言ってくれ状態」です。自分の思い通りにならない彼女を見て、落ち込んだり、ハートブレイクを感じるということは、何かしらの要求をしていたからだと感じます。
落ち込む、傷つくなら、それは愛ではない…ということでしょうか。
するりと愛にすり替わる、僕自身の卑しさを受け容れ、愛していると言わなくても、感じられる自分でいたいと思いながら、今日もこのはを抱くのでした。