伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.6 自分の本質の光

伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.6 自分の本質の光

仏教的アドヴァイタ

このシリーズでは、中国の偉大な禅師「黄檗希運」の教えを、分かりやすく意訳し、解説させていただきます。黄檗希運の教えは、仏教をベースとしたアドヴァイタ(不二一元論)であり、究極の悟りの境地を伝えています。

日本のスピリチュアル界では、ほとんど知られていない存在ですが、その悟りの境地は圧倒的なものであり、アドヴァイタに興味を持たれている多くの方にとって、役に立つ教えとなることでしょう。
(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

伝心の法則~ある偉大な老人の教え

この本来の仏の上には、一切のものがなく、透明、静寂で、平和と安らぎがある。その境地に深く悟って入れば、ダイレクトに仏そのものであり、すべての徳が備わっていて、何も欠けているものはない。

どれほど長期間修行して、様々な霊的地位を歴任しても、この一瞬の悟りを得たら、ただ自分自身が元々仏であったと気づくだけで、そこにさらに加えるものなどなかったのだとわかる。

逆にこれまでの修行を振り返ったら、それらはすべて夢の中の妄想だったのだと気づくだろう。

だからこそ如来はこのように言ったのだ。

「私は最上の悟りについて、何も得たものはない。もし何か得たものがあったなら、私が仏になることを予言されることはなかっただろう」

「この教えは平等で、高い、低いという差別はない。だから最上の悟りと呼ばれる」

だからこの本質的に清浄な心は、生きとし生けるもの、あらゆる仏、山や川の自然界、形あるものもないものも、この宇宙すべてにおいて、すべてが平等で、あなたと私というイメージの違いはない。

この本質的に清浄な心は、いつも完全な光に満ち、すべてを照らしているが、世間の人々は、そのことに気づかず、外的な知覚を自分の心だと勘違いし、その知覚作用によって光が覆われてしまう。

したがって、聖なる自分の本質の光が見えない。

「究極の悟り」に至るプロセス

黄檗希運のいう悟りの境地は、最終的な究極の悟りの境地を表しているのかもしれません。
そこに至ると、そこに至るまでのプロセスも、すべて幻想であったと気づくような悟りの境地なのでしょう。
それは、得るという境地ではなく、得ることをも超越している状態なのかもしれません。
このようなプロセスの否定は、究極の悟りの境地にはよくあることですが、私たちがその言葉を真似して、プロセスを否定しても、そのプロセスを否定するということ自体が、プロセスの中に組み込まれてしまいます。

したがって、いつまで経っても、このような境地には、辿りつけない(辿り着くという捉え方自体がすでに違うのでしょうが)のです。
このような境地は、自然に誘われるものであって、追い求めるものではないのかもしれません。しかし、追い求めるというプロセスもまた、その幻想性に気づくという意味において、誘われることへの布石になっているのかもしません。

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