伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.5 一瞬で悟る

伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.5 一瞬で悟る

仏教的アドヴァイタ

このシリーズでは、中国の偉大な禅師「黄檗希運」の教えを、分かりやすく意訳し、解説させていただきます。黄檗希運の教えは、仏教をベースとしたアドヴァイタ(不二一元論)であり、究極の悟りの境地を伝えています。

日本のスピリチュアル界では、ほとんど知られていない存在ですが、その悟りの境地は圧倒的なものであり、アドヴァイタに興味を持たれている多くの方にとって、役に立つ教えとなることでしょう。 (日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

伝心の法則~ある偉大な老人の教え

この心を悟るのに、早い者と遅い者がいる。
教えを聞いて、ひとつの気づきで、無心を悟る者もいるが、修行のそれぞれの段階を踏んで無心を悟る者もいるし、ハイレベルな修行段階を経て、無心に至る者もいる。

一瞬でも、時間がかかっても、無心を悟ればそれで終わりであり、それ以上、修行すべきことも、気づくべきこともない。しかし、実は何も得てはいないのだ。だから真実なのだ。

一瞬で悟ろうが、修行段階を経ようが、それは同じことであり、浅くも深くもない。そうでなければ、長期間、意味もなく苦労するだけである。

悪いことをすることも、良いことをすることも、それを意識しているなら、それらはイメージへの囚われでしかない。

イメージに囚われて悪いことをすれば、輪廻の苦しみを体験するだけであり、イメージに囚われて良いことをすれば、意味もなく苦労するだけである。

結局、自分でこの教えに気づくことが一番大切である。この法則が心であり、心以外に法則はない。この心が法則であり、法則以外に心はない。

心は、はじめから無心である。心以外に、無心であるものはない。心で心を無心にしようと努力すれば、心は有心になってしまう。これは、気づくしかなくて、思考を超えている。だから、「言葉を断て、思考を滅せよ」と言われるのだ。

この心のあり方が、清浄なる仏であり、人間はすべてこの心を持っている。生きとし生けるものと、様々な仏は、一体であり、別のものではない。ただ、妄想に囚われ、思考で分別をするから、様々なカルマを作ってしまうだけなのだ。

そこには同じ悟りがあるだけ

黄檗希運は、悟りに時間がかかろうが、一瞬で悟ろうが、そこには同じ悟りがあるだけであると言っています。
それは、悟りというものが、時間の観念を超越したもの、だからなのかもしれません。
善悪に関しても、そこにイメージや観念を付随させるから、カルマという現象が生じるのだと言っています。
イメージや思考が消えた領域には、カルマも輪廻もない、ということなのでしょうか。
その領域(無心)は、最初からあって、そこにただ気づけばいい、ということです。
その領域に近づこうと努力すること自体が、その気づきを妨げてしまうのかもしれません。
思考を超えて、そこに気づくこと、それが、一瞬にして生じる悟りという現象なのかもしれません。

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