伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.4 無心を悟る

伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.4 無心を悟る

仏教的アドヴァイタ

このシリーズでは、中国の偉大な禅師「黄檗希運」の教えを、分かりやすく意訳し、解説させていただきます。黄檗希運の教えは、仏教をベースとしたアドヴァイタ(不二一元論)であり、究極の悟りの境地を伝えています。

日本のスピリチュアル界では、ほとんど知られていない存在ですが、その悟りの境地は圧倒的なものであり、アドヴァイタに興味を持たれている多くの方にとって、役に立つ教えとなることでしょう。 (日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

伝心の法則~ある偉大な老人の教え

様々な仏を供養するより、たった一人の無心を体得した修行者を供養する方がいい。それはなぜか。
無心というのは、一切の心がないという意味である。そのあるがままのあり方は、内部では微動だにしない木や石のようなものであり、外部では塞がれることも妨げられることもない虚空のようなものであり、主体も客体もなく、位置もなく、形もなく、得ることも失うこともないものである。

修行者は、あえてこの教えに踏み込むことをせず、まるで空に落ちるかのように自我の足場を失うことを、ただ恐れている。だから、このような崖を目の前にして退いてしまい、皆、知識を求めようとする。知識を求めるものは動物の毛のように沢山いるが、この道を悟るものは、角のようにほとんどいない。

文殊菩薩は、宇宙の仕組みを象徴し、普賢菩薩は、真理を求めることを象徴している。宇宙の仕組みとは、真実の空に、自由自在な働きがあることであり、真理を求めるとは、イメージを離れ、無限の領域に超越することである。

観音菩薩は、大きな慈愛の象徴で、勢至菩薩は、大きな智慧の象徴である。維摩とは、清らかな名という意味である。清らかというのは、そのあり方であり、名とは、その顕れ方である。あり方と顕れ方は、違うものではない。だから清らかな名というのだ。

これらの菩薩に象徴された資質は、すべて人間に具わっているものである。それは、一つの心のあり方から離れたものではなく、このことを悟ればいいだけである。今の修行者は、自分の自我の心の中に没入して悟ることができず、心の外にイメージを描いて仏を対象化している。これらは、本来の悟りへの道ではない。

ブッダが説いたように、ガンジス川の無数の砂は、様々な仏や神々が、その上を歩いても、喜ぶことはなく、牛や羊や虫や蟻が踏んでも、怒ることはない。砂は、財宝も香木も欲しがらないし、糞尿や汚物も嫌がらない。これが無心のあり方というものだ。

すべてのイメージから離れれば、人間と仏との違いはないのである。ただ無心であるなら、これが究極の境地である。修行者がこの無心をダイレクトに悟らなければ、永遠に修行をしても、悟りの道を成就することはないだろう。逆に修行が束縛を生み、解脱は得られないのである。

「悟り」はすでに備わっている

黄檗希運によると、仏のイメージを追い求め、悟りの知識を得ようとすると、それらの行為そのものが束縛を生み、解脱を遠ざけるようです。

ですから、無心であることをダイレクトに悟れ、という風に言っています。これは、悟りを外に求めるのではなく、すでにそこにある悟りのあり方に気づけと言っているのかもしれません。

重要なのは、悟りが何らかのプロセスを経た後に獲得できるものではなく、最初から人間に備わっている「あり方」であるということです。それは、主体や客体といった認識で捉えるものではなく、また得たり失ったりといった境地でもないということです。

最初からそこにあり、永遠に不変の「あり方」そのものなので、それを対象化して獲得しようとする限り、いつまでも悟ることはできないということなのかもしれません。

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