伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.3 思考とイメージが作る仏

伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.3 思考とイメージが作る仏

仏教的アドヴァイタ

このシリーズでは、中国の偉大な禅師「黄檗希運」の教えを、分かりやすく意訳し、解説させていただきます。黄檗希運の教えは、仏教をベースとしたアドヴァイタ(不二一元論)であり、究極の悟りの境地を伝えています。

日本のスピリチュアル界では、ほとんど知られていない存在ですが、その悟りの境地は圧倒的なものであり、アドヴァイタに興味を持たれている多くの方にとって、役に立つ教えとなることでしょう。 (日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)
今回はPART.3です。

伝心の法則~ある偉大な老人の教え

この心のあり方というのは、一切の形のない虚空のように清浄なものである。
しかし、この心の中に思考が生じたら、本質から離れて、形が生み出されてしまう。
宇宙が始まって以来、このような形を持った仏というものは存在しない。
あらゆる仏道修行をして、仏になろうとしても、それは手段にしか過ぎない。
宇宙が始まって以来、手段としての仏など、存在しない。
ただ、この心のあり方を悟るだけである。
そこには、掴み取れるものなど何もない。それが、真の仏なのだ。

仏と人間は、この心が存在するだけで、なんら違いはない。それは虚空に何のゴミもなく、壊れた部分もないようなものだ。あの太陽の日輪が地上のすべてを照らし、日の出に大地が光輝いても、虚空が明るくなることはないように、日没に闇が大地を覆っても、虚空がさらに暗くなることはないように。光と闇がその境界で侵食しあっていても、虚空は確固としてなんら変化することはない。仏と人間の心も、全く同じである。

もし、仏をイメージして、清らかで光り輝いた解脱のイメージを思い浮かべ、人間をイメージして、穢れて暗く生死があるものと想像するなら、このような理解をする者は、どれだけ時を重ねても、真の悟りを得ることはないだろう。それは、イメージに囚われているからだ。

ただ一つの心のあり方、塵一つも掴み取ることはできないということ、この心のあり方が仏なのだ。 しかし、現代の修行者は、このような心の本質を悟ることができないで、心の中に心が生まれ、外の世界に仏を求め、イメージに囚われて修行をしている。みんなこれは間違った教えであり、真の悟りへの道ではない。

イメージに囚われないことが真の悟りへの道

私たちは、仏や神という言葉を使う時、必ずそこに思考やイメージを付随させます。 たとえば、キリスト教徒であれば、その人が蓄積してきたキリスト教的な神のイメージを付随させて、神という言葉を使います。

同じ神という言葉でも、日本神道であれば、八百万の神をイメージするかもしれません。 そのようにイメージや思考を伴った仏や神は、その人の体験に基づく仏や神ですよね。黄檗希運は、そのように思考やイメージによって生み出された仏や神という形態は、この宇宙には存在しないと言っています。

もし、そのような仏や神が存在するなら、それは自我が思考やイメージとして生み出したものですから、自我による創作物になります。 私たちは、そのように思考やイメージが創りだした仏や神を求め、それに近づこうとします。

そのことを黄檗希運は、外の世界に仏を求め、イメージに囚われて修行をしているので、それは真の悟りへの道ではないと言うのです。 確かに、思考やイメージによって生み出された仏や神は、アドヴァイタ(一元性)の遍在性を否定することになります。

分離や優劣が生じるので、宗教間の争いを生み出す原因になるかもしれません。 そして、仏と人間を分離させ、修業をすることで仏に近づいていくという考えそのものが、間違った教えなのかもしれません。

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