伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.2 ただ一つの心

伝心の法則~ある偉大な老人の教え PART.2 ただ一つの心

仏教的アドヴァイタ

このシリーズでは、中国の偉大な禅師「黄檗希運」の教えを、分かりやすく意訳し、解説させていただきます。黄檗希運の教えは、仏教をベースとしたアドヴァイタ(不二一元論)であり、究極の悟りの境地を伝えています。

日本のスピリチュアル界では、ほとんど知られていない存在ですが、その悟りの境地は圧倒的なものであり、アドヴァイタに興味を持たれている多くの方にとって、役に立つ教えとなることでしょう。
(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

今回はPART.2です。

伝心の法則~ある偉大な老人の教え

禅師は私に言った。

様々な仏と、すべての人々は、ただこの一つの心を持っているだけである。他のものは何もないのだ。
この心は、この宇宙が始まって以来、生じることも滅ぶこともなく、色もなく、形もなく、表情もなく、有るとか無いとか、古いとか新しいとかを計測することもできず、長くもなく、短くもなく、大きくもなく、小さくもなく、どのような量も言葉も、痕跡も、アプローチも超越している。
そのもの自体がそのものなのである。
思考を働かせたら、それは的外れになるのである。それは、宇宙の虚空のように限りなく、計測することができないものである。
唯この一つの心こそ、仏なのである。仏と人間に、違いなどないのである。

しかし、あらゆる人々は、物質的な形に囚われて、外の世界に仏を求めようとする。求めるほどに、仏を見失うのである。
仏によって仏を求め、心によって心を捉えようとしている。そのようなことをしてどれほど長い間修行しようとも、それを悟ることはできないだろう。

ところが、思考をやめ、イメージを滅すれば、仏は自然に、目の前に姿を現すのである。この心のあり方が、仏そのものであり、仏がそのまま人間である、ということである。
人間であるからこの心がないというわけではなく、仏だからこの心をより持っているというわけではない。さらに、あらゆる修行の恩恵も、はじめからこの心に備わっていて、改めて加える必要はない。縁があれば自然に施し、縁がなくなればそのまま消える。

もし、このようなあり方が仏であると気付くことができず、仏のイメージに囚われて修行をし、恩恵を求めようとするならば、そのイメージは妄想になって、道を踏み外してしまう。

この心のあり方が仏そのものであって、別の仏があるというわけではないし、別の心があるというわけではないのだ。

アドヴァイタは、インドのヴェーダ思想にも通じる
「不二一元論」

黄檗希運の教えは、仏教的なアドヴァイタ思想です。アドヴァイタというのは、日本語では不二一元論といいます。インドのヴェーダ思想にも同じものが見られます。すべては同じ一つの現れであるという思想で、その一つのものを、神、仏、エネルギー、宇宙など様々な名称で呼んでいます。ただ、言葉の定義は人それぞれなので、余計なイメージの影響を避けるために、「彼」、「それ」という代名詞で呼ばれることが多いです。

黄檗希運は、この一なるものを、「仏」と呼んでいます。仏しか存在していなくて、他には何もない。最初から仏しかなくて、私たちも仏そのものである、ということです。ですから、仏のイメージに囚われて修行をしても、イメージが作り出す幻想に辿り着くだけだと言っているのです。

この文章で私が思い出したのは、J・クリシュナムルティの教えです。クリシュナムルティは、神というイメージに囚われて修行をしても、辿り着くのは自分のイメージの神(既知なるもの)でしかないと言っています。未知なるものは、イメージや思考を超えたところに存在すると。

黄檗希運も、仏は最初から私たちの心に備わっていて、付け加えるようなものではないと言っています。付け加えるのではなく、思考やイメージを滅することによって、仏は自然に姿を現すと説いています。無いものを獲得しようとして修行するのではなく、既にそこにあることに気づくだけでいい、ということなのかもしれません。

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