「私はだあれ?」ヤージュニャヴァルキアとラマナ・マハルシが言いたかったこと

「私はだあれ?」ヤージュニャヴァルキアとラマナ・マハルシが言いたかったこと

「“私”はいる」とどうしても言いたいあなたへ

前回、13シリーズにわたってご紹介した、【私を探すためのメソッド~「あなたはだあれ?」~肉体でも肩書きでもない、本当の「私」を探す方法】。その中でインドの聖者をふたり紹介しました。1人目は、ヤージュニャヴァルキア、そしてもうひとりはラマナ・マハルシ。このふたりの聖者は「私を探す」のが趣味では無くて、「私」なんて居ないのに、居るかのようにマーヤ(虚像世界)の中で戯れる、あなたを諭したかったのです。

目を使って、花がそこにあると認識する。
花がそこにあると認識したのは、「私」である。
耳を使って、鳥がそこにいると認識する。
鳥がそこにいると認識したのは、「私」である。
思考を使って、考え事をする。
考えついたものを認識したのは、「私」である。
言葉を使って、まだ見ぬ何かを説明する。
概念化されたそれを認識したのは、「私」である。

見たのは私で、
聞いたのは私で、
考えたのは私で、
納得したのは私。

全ての認識の先に、認識主体である「私」が確固として存在します。全てを認識するものこそ、私です。一方、ベクトルを逆に向けて「私」を探すと、絶対に見つかりません。

目で見たのが誰なのか?
耳で聞いたのは誰なのか?
考えたのは、納得したのは、誰なのか?
その先には、いったい誰が居るのか?

確固たる誰かを、そこに探し出すことは出来ません。それなのに、日常生活で僕たちは、全ての起点に「そんな誰か」を据えています。「私」が悩むし、「私」が悲しむし、「私」を損させないように努力するし、「私」が傷つかないように必死に守ります。なんてあやふやな起点なんでしょう? 「そこに、全ての勘違いの始まりがあるんだよ」と、聖者は説きます。「必死に守ったところで、そこには、“私”なんていないのだと。何を守ってるのだ?」と。

日本の平和団体がこう言ったのを聞いたことがあります。「日本の敵なんて本当はいないのに、自衛隊は何をそんなに必死に守ってるの?」と。自衛隊はそんな嫌みを言われていますが、それとは違って、「私」には「敵」はいるかもしれません。「敵」は認識出来る対象物なのだから、いるのかもしれません。だけど、敵から守っているところに、「私」が居ないのです。誰を必死に守っているのかがわからないのです。

もしかしたら「私」が悲しまないように、いろいろと努力するかもしれません。でも、悲しみの先に、「私」なんていないのです。既に撮られたDVDの中にあるマシンガンは、DVD鑑賞室で見ている真の私を撃ち抜くことは絶対にできません。流れ弾が当たらない場所に、真の私はいるのです。

究極に安全な場所で、勝手にDVDの中の何かを「私は、○○である」と自己と同一化し始めて、マシンガンに怯えているだけなのです。自己は、本来、何とも同一化してはいけないのです。というよりは、同一化出来ないのです。それなのに、すぐに「私は、○○である」と、何かとくっつきたがります。「それを辞めろ」と、ふたりの聖者は言っています。「何ともくっつかず、ただただ、それらを見つめる本来の場所に戻れ」と。「目を覚ませ!」と。

目の前の出来事や事象をただただ見つめること

真の私の場所に戻ることは、非常に難しくて非常に簡単です。例えば、現実に、目の前にマシンガンを持った変質者が現れたとします。そいつは、今すぐにでも撃って来そうな勢いです。真の私について深く学んだあなたは、「真の私はそのマシンガンでは傷つけられない」と言って、そのまま撃たれるべきでしょうか? 怯えず、逃げす、ただ見つめる場所こそが、真の私の場所でしょうか?

違います! 全然違います!

真の私は、全てをただ認識する場所にいるのだから、「ガタガタと恐怖が湧いて来て、必死で逃げ出す」、という状況が起こるのなら、それを見つめればいいのです。何度も言いますが、真の私は、撃たれようとしているその人ではありません。その人は、ただの、認識された対象物(登場人物)なのです。その人が何を演じようと、真の私には無関係なのです。
その人が、ガタガタ怯え出すなら、それを見ていればいいし、その人が、怯えないフリを始めたなら、それを見ていればいい。その人の考えから、感情から、行いに至るまでの全てを究極に見つめるのです。そこに、本来の私がいるのです。

だから、究極の、究極に全てを見つめる場所に戻るということは、これまでと、何一つ変わらない、ということになります。これまでも、その人とはまったく関係の無い、絶対に安全な場所で、その人を見つめていたのだから。これまでと何一つとして変わりません。だから、難しく考えれば難しいでしょうし、簡単だと思えば簡単です。

でも、これまでと何も変わらないのかもしれないとは言いながらも、全てをただ認識する場所に、真の私がいるということだけは覚えていて欲しいのです。そして、認識出来たもの全ては、絶対に「真の私ではない」ということも。

あなたは、あなたが見る事の出来る全てではありません。
あなたは、あなたが聞ける全てではありません。
あなたは、あなたが感じる全ての感情ではありません。
あなたは、あなたが説明できる全ての概念ではありません。
あなたは、それら、全ての全てを、認識する側にいます。

だから、「私は○○である」とすぐに何かとくっつくのを辞めればいいのです。「私」は、絶対に説明できないのだから。あなたは、説明できたその全てでは、決してありません。ということは、あなたは、「そのままで良い」のです。そのままで良い、というより、「そのままで良い」以外に選択肢がないのです。

その、観ているDVDの内容を、「そのままではなくする」ことは、観ているあなたには出来ないのだから。だから、あなたは、そのままで良いのです。努力しても、努力しなくても、何をしても、何もしなくても、「そのままのあなたで良い」。

ただそこに居ること、すべてを受け入れること

ヤージュニャヴァルキアとラマナ・マハルシは、この状態になることを勧めています。これは、「明け渡し」という技法です。神様(又は目に見えない存在)に全てをゆだねること。「私」の全てを明け渡すという方法。そもそも、「私」は、究極の鑑賞者であって、何一つとして、為せない存在だから、明け渡しとは、本来の自分の態度を思い出す行為です。その人はただの登場人物なのだから、その人を操縦しようという一切を、明け渡します。その人の行動から感情に至るまで、全てを、目に見えない存在に明け渡します。

全ては、そのままで大丈夫。
あなたは、あなたのままで大丈夫。
今後、あなたが、何をしようと、何もしまいと、絶対に大丈夫。

「あなたは、そのままで大丈夫なんですよ」という事を、わざわざ誰かに教えてもらう必要もないくらいあなたは、そのままで大丈夫です。

ふたりが伝えたかったのは、この一点。
あなたは、そのままでもう、「それ」なのです。
あなたは、すでにもう、「それ」なのです。
これまでも、今も、これからも、そのままのあなたで大丈夫。
何をしても、何もしなくても、あなたが在るだけで大丈夫です。

「明け渡し=開け私」
あなたが、完全に「あなた」を明け渡した時、真の私への道が開かれます。
今後何が起ころうと、未来永劫その起こるままで大丈夫です。
「我、既に、“それ”なり」
明け渡しの状態になるために、「私」に出来ることがあるとすれば、「このままで大丈夫」と何度も何度も語りかけること。

どう頑張っても、「大丈夫じゃない」状態にはなれない私たち。何度も言いますが「あなたは、そのままで、大丈夫」。「そのままでは大丈夫じゃないかも」と、明日思ってしまったとしても、そのまま、思ってしまったままで大丈夫です。
 
私を探すためのメソッド~「あなたはだあれ?」
~肉体でも肩書きでもない、本当の「私」を探す方法
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