「あなたはだあれ?」~肉体でも肩書きでもない、本当の「私」を探す方法 PART.12

目には見えないモノを信じる

空海による、「私」と「真の私」。DVDの理論を使って説明が続きます。
前回の記事はコチラ

空海さんが教えてくれました通り、全てを認識する存在である真の私は、DVD鑑賞室に居ます。既に撮られたDVDの中の「私」から、どうやっても探せないDVD鑑賞室。でも、これはあくまでも、真の私の概念やシステムをそれっぽく説明するための、例えに過ぎません。だから、あなたが想像上であの世の駅前あたりにある、DVD鑑賞室を想像したところで、それは、真の私とは程遠いでしょう。何よりあの世にDVD鑑賞室があるとは思えない。
だから、『概念』として捕らえようとする真の私のカタチも、もっと別の捕らえられない場所にあるはずです。「私は、○○である」という形式に呪縛されない存在こそ「真の私」なのだから。今も、僕が「真の私」を【説明】したからには、それは要するに、真の私という概念を創り上げたことになります。【概念】とは、認識された後の認識対象物なので、『私は、【私は、○○であるという形式に呪縛されない存在】である』と、言えるようにしてしまったということで、結局、「私は、○○である」になってしまう。だから、それは、説明してはいけないんです。説明とは、何かを認識した後の状態にしてしまう行為だから。私が絶対に認識対象物にはならないからには、説明してはいけないのです。真の私を説明してはいけないし、想像してはいけない。

結局、「私は、○○である」とは絶対に言えませんよという昨日までの例え話は、私を、捕らえようとしてはいけないですよと言っているだけなんです。もちろん、「私は、【捕らえようとしてはいけないモノ】である」もNG。それは目で捕らえることが出来ないのと同様、説明で捕らえる事が出来ないのだから、概念化することが出来ないはずなんです。

私という認識

でも、どうしましょう。こうしてる間にも、DVD鑑賞室で、真の私はDVDの主人公や、DVDのモノや、DVDの感情などを、「私は、○○である」と、勝手に勘違いして、自己同一化の作業を辞めません。出来ることならば、早く、その人が早く目を覚まして気づいてくれることを願います

私とは、認識するもの。あなたが日常生活で『私は○○である』と思っている、○○の全ては、あなたではありません。私は、この身体では無いし、この名前では無いし、この、ここに居るこの存在では無いし、この痛みや感覚ですらありません。私は、全ての「私だ」と思いこんでいるものではないのだから。その認識された対象物の全てを、認識するものこそ、私なのだから。
だから、「私」が、真の私を認識することは絶対に出来ません。でも、実はあなたが、真の私だった瞬間があります。PART.3の記事の時がそうです。

更に他にもあなたが真の私だった時があります。15日前です。
更に他にもあなたが、真の私だった時があります。2時間前です。
更に他にもあります。今あなたは、真の私です。

今の今です。一体どういうことでしょうか?

今も、さっきも、2分後も、あなたは真の私です。つまり、あなたは、常に真の私なんです。真の私は、存在が確認出来ない場所に居る訳ですから、目にも見えないし、耳にも聞こえないし、想像することも出来ない。認識主体である真の私は、認識対象にはならないのだから。だから、「私」には、絶対に検出されないけど、だけど、常に、今、ここに、真の私が居ることになります。

認識主体である、真の私は、目でも見えないし、概念でも説明することは出来ません。どうやっても、捕らえることが出来ないんです。不検出の身なんです。だからこそ、常に、今も、あなたのそばに、真の私は居続けたことになる。正確に言うと、「居るはずである」になります。

「居るはずである? そんなあやふやなもの、絶対に信じられないぞ!」とあなたは言うかもしれません。それでも、真の私は、常に、今ここにいます。これまでも、ずっと、私と共にいたし、これからもずっと居ます。

だって、認識主体である、「真の私」が居なければ、認識が起こらないのだから。ただ、真の私は、全ての認識主体なので、検出されることはありません。ということは、要するに、こうなります。「目に見えないモノを、あなたがどれだけ信じられるのか、それが全てです」と。

検出する事が出来ないのだから、見えないでしょうし、聞こえないでしょうし、説明できないでしょう。だから、「居るだろう」になります。それでも、その、目に見えない存在を心底、信じることが出来たなら、真の私が顕現することでしょう。真の私として、目覚めることでしょう。

花は目で見えます。
音は耳で聞こえます。
考えは思考で捕らえられます。
モノは説明で概念化(捕獲)出来ます。

全てのモノは、何らかの手法で、「私」が認識出来ます。
でも、全てのモノの、認識主体である、真の私は、それらのどの方法でも、捕らえることは出来ません。真の私を検出する唯一の方法、それは、「信心」です。「信心」こそが、真の私に「私」が目覚める方法です。「信心」という手法を用いて、真の私を感得することが出来ます。目や、耳や、思考と同じなんです。ただ、手法が、「信心」に変わっただけ。何の見返り(反応)も検出されないけど、在ると認識する方法、「信心」。

「信心と認識」

だから、「信心」を使ったことで、「認識出来たぞ!」という証拠は出てきません。一切の手ごたえ、なしです。「認識出来たぞ!」なんていう証拠や、証明できるものは絶対に出てこない。それでも、そこに、ソレを信じる、それが「信心」という手法なのだから。

一切の証拠や、一切の検出反応(見返り)を期待せず、それでも、確実に、そこに在るものを信じる、「信心」。真の私は、常に、目覚めた状態で、ここに居続けています。
すぐ、そばに。ほら、そこに。

もう一度言います。
目に見えないモノを、どれだけ信じることが出来るのか、それだけが全てです。
~つづく~

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