ココロセラピストが教える!『洗脳』~2012年に人類は滅亡しなかったが……~

人類滅亡を信じましたか?

2012年。人類滅亡説というものがありました。いろいろな情報が飛び交いました。一部の人間は恐れ、一部の人間は未知なる世界に対する期待をしていたかもしれません。しかし、大半の人たちは、そんなことすら意識せず、いつもと変わらない日常を過ごしていたと思います。

1999年。ノストラダムスの大予言の時も、似たような感じだったと思います。目に見えない不安や恐怖、あるいは期待をしていた。そんな感じだったと思います。その間に、聖霊にあったとか、宇宙人にあったとか、そういう人たちもいるのかもしれませんが、僕は残念ながらその手の能力は持ち合わせていません。しかし、殆どの人たちが知らないであろう、あるいは、知っていてもそれこそ自分の力ではどうにもならないと潜在的に思い込み、意識の内側に閉じ込めてしまった人もいるかもしれないであろう情報を五感、いや、第六感も含めて毎日感じていることがあります。

人類は滅亡しなければそれで良いのか。ふと、脳裏にそんな疑問が湧いてきました。もしかしたら、今から話す内容をきちんと理解して改善しようと試みない限り、僕たちは実は既に滅びの世界を生きていると言えるかもしれません。この話は、あまりにも恐ろしいので語るべきではないかもしれないとさえ思いました。しかし、この記事を読んで下さっている読者層の知的レベル、そして精神レベルの高さを僕なりに理解しているつもりなので、勇気をふり絞って、この話をしようと思いました。

洗脳は身近にある

それは、『洗脳』です。この言葉は、オウム真理教が台頭した頃から割と有名になった言葉ではないかと思います。最近でも「占い師に洗脳された」とか、割と頻繁に使われている言葉だと思います。この定義や説明をすると、結構な時間がかかってしまうので、ここでは割愛します。とりあえず「自分の意志と関係なく気が付いたら操られている」と解釈して下さい。

反論異論ある方もいるかもしれませんが、結論から言います。「僕たち(文明人の多く)は既に集団洗脳されている」ということです。誰に、何のために洗脳されているのかはわかりません。陰謀論的な想像もできますし、政府かもしれません。もしくは、自然発生的に洗脳者が発生し、そして増殖した可能性もあります。それは僕にはわかりません。

では、僕たちがされているであろう洗脳についてお話します。それは「思考を奪う」ということです。大人も子供も男性も女性も関係ありません。一部の支配者階級以外、すべての人を対象としています。思考奪うことによって「疑問を持たせない」「当たり前ではない事を当たり前と思わせる」という方向に意識付けをします。どうやるかというのは簡単で「多忙」にすればいいだけです。勉強でも良いですし、仕事でも良いです。適当な大義名分を与えて半強制的に義務付け、習慣化させるのです。これの恐ろしいところは大義名分を与えている側も周囲の人間を洗脳している自覚が無く、自分自身も見えない何かによって洗脳されているのです。「人類を幸せに導くため」「お金を稼ぐため」なんでも良いのです。それっぽければ。後は、適当な精神論を熱弁し、気合と根性の重要性を繰り返し、適応できない人間を無能という烙印を押し不安を煽るのです。

「忙」という文字は「心を亡くす」と書きます。そこに、ある種の指示命令を与えて操ることを「洗脳」というのです。だから、心身に違和感があっても、うつ病になっても、過労死しても、その原因も対策も深く考えず、ただ嘆くだけなのです。良く考えてみて下さい。この国の現状を。一瞬でわかるはずです。人間が人間としての幸せを望む権利を本当に僕たちは手にしているのだろうかと。

自分探しなどという現象が流行っていますが、これってつまり今の人生に違和感があるということではないでしょうか。しかし洗脳されているのでふとした違和感があっても「私がきっと間違ってるんだ…」という思考プロセスが自動生成されたりしていると思いませんか。洗脳とはカルトや占い師がするものではないということを頭に叩き込んで置いて下さい。そして、既存の文化や生き方をたまには疑ってみて下さい。その先に幸せがあるのかどうか、頭と心をフル回転させて見て下さい。

悲しい話ですが、この洗脳解除は正直僕でもかなり手ごわいです。この記事の意味を理解できる一部の人たちだけが、見えない力からの洗脳を解除できる可能性を秘めています。時には誰かと戦わなければならない時もあるかもしれません。逃げなければならない状況に陥るかもしれません。しかし、これだけは覚えておいて下さい。あなたは、誰かに操られるために生まれて来たのではないのです。幸せになって良いのです。
生きて行くということは王道だけではなく、時には妥協も卑怯も必要な場合があります。しかし、それは手段にすぎません。最後にあたなが心の底から笑えれば、それが正道なのです。