「あなたはだあれ?」~肉体でも肩書きでもない、本当の「私」を探す方法 PART.4

正しい自己紹介

「私は、○○である」という文章は、物凄くおかしい」と、昨日みなさんに言いました。【○○】を「私」が認識出来ている限り、私は、【○○】ではないから。

「私は美人である。」と普段思っていたとしたなら、それは間違いです。そこに、【美人】を認識出来ている、「私」がいるのだから、本当の「私」は【美人】ではありません。すると、「私は美人ではない」と聞いただけで、「じゃあ、ブスなんでしょっ」と思ってしまう人もいるかもしれません。「私は、ブスである」でしょう?って。すぐに、「私は、○○だ」という方法に行ってしまいます。

「私」とは、永遠に捕らえられないんだから、「私は、○○だ」と、決定的な私の素を探すことなんてできません。どれだけ頑張っても、「私は、○○である」とは言えません。じゃあ、どうしたらいいのでしょうか。「私は、○○ではない」。この表現なら、論理的には破綻しません。【○○】を認識出来ている、「私」が居るから、『「私」は【○○】ではありません』。古代インドの哲学者であるヤージュニャヴァルキヤが唱えた理論、「ネーティ・ネーティ」というものです。

ネーティー・ネーティーとは?

「ネーティー・ネーティ」とは、「じゃない、じゃない」という意味です。「~に非ず、に非ず」ですね。簡単に言うと、私は「○○を認識するモノ」なので、「私は○○だ」とは絶対に言えません。だったら、「私は○○じゃない」と言うのは、ある意味OKかもしれません。

「私は○○だ」と言う考えは、全て「私」に認識された対象物に過ぎないので、それらが認識主体の「私」であるわけがありません。だから、「私は、○○ではない」という表現は成立します。でも、だからと言って自己紹介の場面で、「私は、○○ではありません」と言ったところで、果たして自己紹介は成立するでしょうか。ここに、この世の違和感があるのです。

「私は、○○ではない」の方が正しいはずなのに、「わたしは○○です」としか、日常では思うことができません。認識対象物と、私(認識主体)が同化してしまっているのです。

絶対に、私じゃないはずの「○○」。絶対に、私じゃないはずの「悲しい感情」。この世にあるもの全ては、絶対に私ではないのに、それでも、それらを「私」だと思ってしまいます。それらを集めると「私」が出来る気になってしまうのです。
これが、多くの物理学者が、「“私”という現象が、この世で一番不思議な現象です」と言っているゆえんです。
少し混乱してしまったのではないでしょうか? 少し違和感を残したまま、次回に続きます。

~つづく~

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