授けられるその力は呪いか、ギフトか。~映画「レッド・ライト」レビュー~

授けられるその力は呪いか、ギフトか。~映画「レッド・ライト」レビュー~

デニーロが演じる伝説の超能力者

あの衝撃のラストで泣きたくなったのは、私くらいだったかもしれない。“自分を偽り続けることはできない―”繰り返されるモノローグは、私の脳裏に呪文のようにこだまし続ける。鳥は、米粒ほどの小さな餌がはるか下方の「あのあたり」にあるということを、思考を経由せずに知覚する。下降しながら、確かにそこにある餌へと狙いを定める。鳥は「餌があると思ったのは気のせいだったかな?」などとは思わない。彼らは、本能としてのサイキックセンスにただ自然に従うのだ。

だから、迷わない。

餌となるものが生きている場合、狙われているほうの獲物もスピードが勝負だ。「逃げ切れるかな?もう終わりだ、あれもやっておけばよかった!」などと考る暇もない。“センスに従う感覚”とはそれほど自然なものだ。

しかし人の場合は、それほど単純ではない。人間の脳の中には「大脳新皮質」と呼ばれる部分がある。大脳新皮質は哺乳類にしかないと言われ、脳内のさまざま役割の中でも、とくに高度な機能を司ると言われている。この大脳新皮質があるおかげで、人間は、何かを考えたり、迷ったり、判断したりすることができる。そう、人は、思考を巡らせることも、疑うことも、嘘をつくこともできるのだ。

超能力という力が、人生に何を招くのか

映画「レッド・ライト」は、超能力をモチーフに繰り広げられる、深く知的な人間ドラマでありサスペンスである。本作には、降霊術、念写、念力、心霊手術のほか、体外離脱、読心術、直感など、通常の五感の機能や現象を超えた「超」能力が登場するが、不思議な体験を数々してきた私としては、体外離脱、リーディング、直感などは、奇想天外な絵空事というよりむしろごく日常的な現実であると言える。

能力者が能力を初めて自覚する感覚は、たいていの場合驚くほどシンプルで自然だ。しかし、彼らの人生は周りの人間との関わりによって、徐々に複雑さを帯びてゆく。奇異なものに対する人々の好奇の目。注目、期待、嫉妬、そして疑い。人のマインドは異なるもの、理解できないもの、未知のものを、自身を脅かす存在として恐れ、価値判断するものだ。その結果、人の反応は無意識的にも意識的にも大きく二つに分かれる―支配しようとするか、排除しようとするか。そしてそのような宿命を背負う者はしばしば葛藤し、苦悩し、自問する。これは呪いか。それともギフトか、と―。

能力者にとっての能力は、自在に使いこなせるようになるまで、ギフト(贈り物・才能の意)とはとうてい呼べない代物だ。しかし出来事や出会いに導かれ、苦悩者はやがて、宿命の炎に鍛えられた不死鳥のごとく真実の自己に目覚め、ヒーローへと生まれ変わるのだ。

 

物理学者と超能力者。それぞれの葛藤と苦悩

本作で、名優ロバート・デ・ニーロ演じるサイモン・シルバーはカリスマ超能力者でありメンタリスト、シガーニー・ウィーバー演じるマーガレットは超能力の嘘を暴こうとする物理学者、キリアン・マーフィー演じるトム・バックリーは彼女を助ける同僚の物理学者。デ・ニーロは人生の葛藤、苦悩をくぐり抜けてきた人間がもつ、独特で複雑なカリスマを演じるのにぴったりだ。しかし「バットマン」でスケアクロウ役を演じ強烈な印象を残したキリアン・マーフィーは、デ・ニーロに勝るとも劣らない存在感を放っていた。新たな葛藤と苦悩のヒーロー、新たなカリスマの誕生。

デ・ニーロとシガーニー・ウィーバーが出演を決めたということだけでも本作に期待していた私だが、いや、期待以上だった。そして私自身、ラストで思わぬ“衝撃の余波”を受けることになった。余すことなく真の自己を表現することへの躊躇は霧のように消え、存在の端に至るまで、自己という存在を受け入れる時が来たことを知ったのだ。

“超能力”を肯定する人も、疑う人も、大いに刺激され、インスパイアされ、愉しめるであろう本作。人間の心理や能力についての深い洞察と描写を愉しみたい人、名優たちの演技と知的なサスペンスを味わいたい人にも、お勧めしたい。

 

©2011 VERSUS PRODUCCIONES CINEMATOGRAFICAS S.L. (NOSTROMO PICTURES) / VS ENTERTAINMENT LLC

レッド・ライト 公式サイト
http://gacchi.jp/movies/red-light/ 

 

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