幸福の国のブータン便り・第10稿「し」~「死生観」

ブータンに滞在していたときに違和感を強く覚えた出来事がありました。海外暮らしもあったせいか、文化的な違和感やたとえば個人の価値観の違いにそれほど違和感を感じたことはなかったのですが、この体験だけはすこし違いました。

それは「死生観」。
あるとき、友達の飼い犬が車にはねられて、重傷を負いました。ブータンでは朝食前のひと時にミルクティー(すっごく甘くておいしいんです♪インドの影響)を飲むのですが……ある朝のこと、滞在先のお父さんと話していたら、「あ~、うちの犬がひかれちゃってね~」というので、「ええっ!!で、どうなったんですか??」と聞くと、「あ~、ひかれた場所にいるからわからない」と!!なんてこと!!私は場所を聞き、すぐに駆けつけました。植木の植え込みに横たわる、傷ついたトミー。外傷はないけれど、歩けない。後ろ足をひかれた様子・・・。

「動物病院に連れていって!」とお兄さんに懇願。すぐさま動物病院へ。介抱の甲斐なく、とってもかわいい子犬のトミーは1週間後に亡くなってしまった。

涙する私を見て、家族や友人が不思議がる。「やさしいね~、いい人だね~」と……。
その時はペットの死を目の前にして涙ひとつ流さない人たちに、「それはおかしいんじゃないか?」と感情的になり、心の中でその言葉をつぶやいていたが、これがブータンの死生観なのだと、今は理解している(もちろん死を目の前にするとまた疑問や感情が湧く出てくるけど)。

この出来事は決してブータン人が冷たいというわけではないし、実際、子供を亡くし、悲嘆にくれる両親を目にしたこともある。でもその友人たちの語る言葉はすこし違和感がある。

ブータンはブータン独自の死生観があり、生も死も大きな運命の中の一部。これは「執着しない」というチベット仏教の死生観を反映させているものだけれど、生きている人間が死んだときにさえ「執着しない」ことを徹底するため、ブータンでは人が亡くなった時は以下のような方法をとる。

▼0~2歳の子供
水葬(川に流す):これは生まれてまもない子供が亡くなったということは、その赤ちゃんがなんらかの業(カルマ)をもってきてうまれ、すぐに亡くなってしまったと考えるので、来世によい人生を送られるように、水に流すという過酷な葬儀を行うことにより、今世の穢れを払う方法。

▼2~7歳の子供
鳥葬。これも上記と同じような理由から。

▼8歳以上の年齢
火葬:これは生きている者、残された者の執着も拭い去るため、参列者の目の前で火葬される。亡くなった者の姿形が視覚的に変化していくのを目の当たりにすることにより、亡くなった者への執着をなくす。

年齢はあくまで目安です。
このブータンの死生観は「輪廻転生」に大きく起因していることもあります。亡くなった人は永遠に亡くなったままではなく、いつか生まれ変わり、まためぐりあえるという。
文化や伝統、様々な価値観があり、ときどきで驚くことも多い。しかも死生観となると、尊重はしても、やはりこれはなかなか互いに受け入れられないこと、理解しがたいこともある。
逆に出産の場合にもあまり大きな出来事にならない。お母さんからすると、「あ~、この子は○○の生まれかわりだから、再会だし、別になんてことないのよ」みたいな感じなのかもしれないですね。