ナチュロパスなみの自分の体を信じる PART.5 『永遠に循環される命』

久々の投稿となります。
実は日本に帰国をしておりました。難病の母に孫たちを見せてあげるのが目的だったのですが、 随分と病気の進行した母を見ながら、あと何回母に会えるのだろう、と思うこともしばし。きっと娘たちは私の愛する母をよく知らずに育つのですね。
長生きするだろうと勝手に思い込んでいた母が衰えていく様を見ながら、『予期せぬことが起こるのが人生』だと、改めて感じました。
この世に生まれでたばかりの娘と、日に日に死に近づいていく母を見つめながら、生と死について考えずにはいられませんでした。

生と死について考える時、思い浮かぶのが学生時代の化学の時間に習った「Law of Conservation of Matter」という概念です。

Law of Conservation of Matterとは、
“Matter cannot be created or destroyed (in an isolated system). It can only be rearranged.”
『物質は新しくつくられることはなく、また破壊されることもない。ただ形を変えるだけ』

というような意味です。
人間・動物・植物・水・土・空気、その他の物質は全て元素からなっています。
元素というのは今現在118ある、「万物の根源をなす恒常不変の究極的構成要素」。水素や炭素、窒素などの小さな小さな、これ以上もう小さくなれないという物質です。人間の体の約98%は水素、酸素、炭素、窒素の4元素からできています。残りの数パーセントはその他の約30種類のミネラルで構成されています。

「Law of Conservation of Matter」という概念を知った私はこう解釈しました。
例えば私が死んだとしましょう。
私が死んだら、たぶん火葬されると思います。
火葬をされて灰になります。
灰になるまでの過程で、私の体は炎という光とエネルギーによる化学反応によって、私の体内の酸素と炭素は二酸化炭素となり、水素も空気の一部となります。
私の体の一部から作られた二酸化炭素はやがて木々や植物の光合成により、植物の成長に寄与し、綺麗な酸素をつくります。
私の体を燃やして気体になりきれなかった残りの元素たちは灰になります。
私は海に灰を撒いてもらう散骨を望んでいるので、私の灰、残りの窒素や炭素やカルシウムやマグネシウム等は、海に帰ります。
そこでプランクトンの栄養となるかもしれないし、サンゴの栄養となるかもしれない。または海底に沈んで、海の底の土と交じり合い、海藻の栄養となるかもしれない。
いずれ私の体の一部を栄養として育ったプランクトンや海藻やサンゴは魚やエビやタコたちにつままれ、いずれもっと大きな魚に食べられます。
私の体の一部を栄養素として育ったプランクトンを食べた魚が、人間に釣られます。
その釣られた魚は誰かの食卓に登ります。
私の体の一部を栄養素として育った魚は、その誰かの体の一部を作るのです。
そしてその人が死んだら……と同じことが繰り返されます。

私の体を今つくる元素たちは、破壊されることなく、永久的に何か違う形で生き続けます。
私の体の一部からつくられた酸素は、私の子供や孫、子孫の吸う空気の一部となり、肺から吸収された酸素は、彼らの心臓を動かす糧になるでしょう。
元素は永久的に還元され、私たちの源は破壊されるわけではなく、形を変えるだけなのだと、Law of Conservation of Matterという概念を聞いた私はそう連想しました。また死は地球の循環、大宇宙の循環ということを考えると、必然なことなのだと理解をしました。
そして死というのは還元・循環であって、終わりではないと。
だから死を恐れることはなく、私達は永遠で、死とはただ真の源に還るだけなのだと。

私の好きな詩をご紹介します。つたない翻訳をお許し下さい。

“We are all visitors to this time, this place.
We are just passing through.
Our purpose here is to observe, to learn, to grow, to love…
and then we return home.”
「私たちは皆今この時空への訪問者である
私たちは、ただ通り過ぎて行くだけ
私たちの使命は、観察し、学び、成長し、愛すること……
そして真の源に還る」