アンマ来日記念!直弟子シャンタアムリタ氏インタビュー 後編

慈愛は誰もが持っている、それが本当の自分自身
人種や宗教、貧困の差などの、社会が生み出す分類にとらわれることなく、慈愛をもって一人ひとりを抱きしめ続けるアンマ。本誌39号では、日本で発生した東日本大震災の被害に遭われた方々への祈りとメッセージを届けてくださいました。そして2011年7月には、アンマの再来日が実現! 今回、アンマの直弟子であるシャーンタアムリタ氏より、本誌では語り切れなかった「愛」の本質について語っていただきました。

 

慈愛は誰もが持っている、それが本当の自分自身

今回、日本で起きたような未曾有の災害時は、自分たちに内在する慈愛を呼び覚ます、よい機会になります。このような大災害を他人事として無視することはできないでしょう。慈愛は誰もが既に持っているのですが、多くの人は今まで自分自身の慈愛に触れる機会がなかったと思います。これまでは、愛する対象は、自分の恋人とか、好きな人とか、個人の嗜好に基づき、興味あることや、限られた人やものだけに向けられていて、まったく見ず知らずの人に対して、無条件の愛を抱くことは殆どなかったのではないでしょうか。しかし、今回のような大災害時は、無条件の愛を見知らぬ人に対して抱くという体験をされている方々が世の中で増えていると思います。これは新たな自分の側面のようですが、アンマはこれが本当は最も身近にある愛だと語っています。アンマがこのように語るのは、それがアンマにとって実際に自ら身を持って生きてきた事実だからです。裕福な人も、生活に困窮する人もアンマは平等に受け入れ、見ず知らずの何万もの人々を、世界中で25年以上に渡り、無条件の愛を持って一人ひとりずつ抱きしてきました。彼女のもとを訪れる人数が多いので、ときには16時間以上も休むことなく続けて、人々を抱きしめることもあります。そして、人々が打ち明ける悲しみや困難に涙するのです。わたしたちの場合になると、大抵は、怒っている自分、嫉妬している自分の側面には毎日会っていると思いますが、他者を思いやって涙を流す慈愛に溢れた自分の側面に、今まで会ったことがあるでしょうか。しかし、今回の震災で、この慈愛に溢れた自分に、人生で初めて出会ったとか、久しぶりに出会ったという人が多いのではないでしょうか。今まで会ったことのなかったこの自分を、とても不思議に思い、どうしたらいいかと戸惑っている人もいるかもしれません。しかし、アンマはその慈愛に溢れた側面が本当の自己だと言います。ただ皆が忘れてしまっていただけなので、この慈愛に溢れた自分自身を忘れないようにしましょう。そして、本当ではない自分には、もう戻らないようにするのです。今、この緊急時に、多くの方々が本来の自分を取り戻しつつあると言えるのではないでしょうか。

 

本当の自分は愛そのものという、真実と繋がるようにする

アンマの慈善活動のプロジェクトのひとつに、生活困窮者や、スマトラ沖津波の被災者に対する無償住宅建設があります。そのために、数年前、わたしはインドの寒村に滞在しました。その村には濁っている井戸があったのですが、その井戸は使用していなかったために、水面は濁り、臭くなっていました。わたしはその井戸はもう使うことができないと思ったのですが、村人たちは濁った水をくみ出しさえすれば、井戸は水源とつながっているのでまた使えるようになると言うのです。それが村人たちの間では常識でした。彼らのように、井戸が水源とつながっていて、濁り水を汲みだせばきれいな水が湧きでることを知っている人は、濁り水を汲む努力を惜しみません。そして、濁り水を汲み出す努力をして、もちろんその井戸は使えるようになったのです。わたしたちの多くは、通常、自分のハートという井戸が大いなる存在や神様、愛とつながっていることを忘れてしまっています。そして、自分には愛がないと思い込んでしまうか、そのことに関してまったく無関心になってしまっています。ですから、自分自身が神とつながっていることを思い出して、そのことに気づき、そして、学ぶことが必要なのです。井戸の濁り水を汲み出すのと同じように、実践して、努力すれば、わたしたちのハートは神とつながることができるのです。最初は間違いなく、自分のハートから汲みだす水は濁っていて、臭いでしょう。見返りを期待する自分もいるでしょう。今までハートを使っていない期間が長ければ長いほど、それは仕方のないことです。しかし、その努力が面倒だからと、他の人の井戸から水を汲み出すと、それは自分の水源でありませんから、他人から水をもらい続けることになります。愛をもらい続ける人生は惨めではありませんか。自分が水源とつながっていることを確信して、水を汲みだす努力さえすれば、水をもらうのではなく、水を与えることもできるようになのです。自分が愛そのものになる第一のポイントは、実践することです。その間、色々な臭いものが出てくるかもしれませんが、それでも続けていくことです。本当の自分は愛そのものなのですから、その真実とつながることです。そのための第一歩は自分が水源とつながっていることを確認して、そのための努力を惜しまないことです。それをバカヴァット・ギーターでは実践のヨーガといっています。たとえ、偽善的だと思っても、純粋ではなくても、努力を続けいくことです。アンマも言っていますが、塩水に真水を注いでいくと、次第に塩水が真水になるように、愛を実践していくとそれが次第に真実となるのです。そして、それしか方法はないのです。